第八話 同じ匂い
「ど、どうしよう、十時って言ってた」
「大丈夫、まだ八時だから」
「でも、でも、リアンがもし時間を間違えたら?」
「そんな間抜けじゃないでしょ」
「は、早めに来ちゃった、とか」
「エリン、窓から門を眺めながら何言ってんのよ」
「だって、心配なんだもの」
「大丈夫だって、後二時間もあるでしょ」
朝からそわそわしているエリンにそう言って落ち着かせたルイーズは、まあとりあえず座りなよと椅子に座らせ、運び込んだココアとお菓子を食べさせた。
心配そうな顔で時計を見て窓を見ながら、ココアを飲み、お菓子を食べるエリンに、ルイーズは笑いが込み上げてしまう。
「大丈夫だよ。リアンはきっと五分前に来るね」
「そうかなあ……」
「賭けてもいい。リアンはそう言うタイプだと思うわ」
「……ルイーズが言うならそうかも。えっと、じゃあ今日行く予定の所のおさらいしてもいい?」
「いいよ」
そうして、バッグの中から領都のお勧めの場所が書かれた手書きの冊子を取り出し、熱心に読み始めた。やれやれと心の中で呟きながらも、今日のデートを楽しみにしているエリンが可愛くて仕方がない。
妹も、こんな風に恋に悩んだりしてるのかなと、離れて暮らしている家族の事を思い浮かべながら、ゆっくりとココアを飲んだ。
「あの、大丈夫?変な所ない?」
「ないない。大丈夫、エリンは可愛い」
「えと、ありがと。じゃあ、行って来ます」
「はい、行ってらっしゃい」
十時まで十分前になった所で、エリンの限界が来た。
だから、部屋から出て玄関まで連れて行き、もう一度服の乱れを直して髪型も直してあげた。嬉しそうに頬を染めて玄関を出て行ったエリンを見る為に、家人達やメイド達が窓という窓からじっと門を眺めている。
ルイーズの予想通り、五分前に到着予定であったらしいリアンが、門の所でエリンがうろうろと歩き回っているのを目にしたらしく、遠くから走って来るのが見えた。
エリンはまだ気が付かないようで、地面を見ながらウロウロしている。
固唾を飲んで見守っていると、エリンがふと顔を上げ、走って来るリアンが目に入ったらしい。突然走り出したエリンに、皆が笑顔になった。
「ごめん。もっと早く来れば良かった」
「いいの。私が待ちきれなくて外に出てしまったから」
「僕も、待ちきれなくてもっと早くすれば良かったって後悔してた」
そうして赤い顔で笑い合った二人が、仲良く手を繋いで歩いて行く姿を見送った全員が、ほっと息を吐き出した。
ルイーズだけは、その二人に付いて行く人物に目を止め、眉間に皺を寄せて見てしまう。まったく、帰って来たら説教してやると、後ろ姿でも誰なのか判るその背中を見送った。
しかし、これは何もジルが悪いわけではない。
護衛に着く者が悉く嫌がるから、仕方なくジルに話をした所、ジルが苦笑しながらも引き受けてくれたのだ。
ドニも無理ですと言ってはみたが、他に代わってくれる者がおらず今日も「滅べ」と呟きながら護衛に付いていた。
シルヴァンは隊長権限で、二度と護衛には付かないようにしている程である。よっぽどツラかったんだろうと、私兵達から憐憫の眼差しを送られていた。
「エリン、今日は領都の西区へ行こう」
「西区?あ、ええと、西区はエドナ地方が元々あった所って」
「良く知ってるね。僕も祖父から聞いたんだ」
「そうなんだ。私は皆がお勧めの場所を書いてくれたのがあってね、それを見ていたのよ」
「皆って、お屋敷の人?」
「そうなの。皆がそれぞれに書いてくれた大切な物なんだ。それでね、西区でのお勧めは、オービヤン教会って」
「オービヤン教会の礼拝堂はとても綺麗だよ。飾られている絵は、初代エドナ辺境伯が自ら描かれたって聞いてる」
「えっと、もしかしてリアンも行くのは初めて?」
「あー、うん。実はそうなんだ」
「嬉しい!初めて同士ね」
「……そうだね。住んでいると中々行かないから、エリンと一緒に色んな所へ行くのが楽しみなんだ」
「わ、私も、楽しみ」
そうしてほんのり頬を染めながら笑い合う二人に、ドニの目が据わり「滅べ、滅べ」と呟き続けた。ジルはルイーズのお蔭かとても満たされており、二人を見ても可愛いなあと思うだけで済んでいる。
「ドニ、大丈夫だ。その内可愛い彼女が出来るさ」
「……じゃあ誰か紹介して下さいよ」
「何言ってんだ、屋敷には可愛い子がいっぱいいるじゃないか」
「そりゃあジルさんはあのルイーズさんと付き合ってますからね、何とでも言えますよ」
「あー、良い女だよなあ、ルイーズ。もう本当に最っ高の女なんだ」
「滅べ、もげろ、爆散しろ!」
相変わらずな二人は、がっちりと手を握っていると言うのに、ほんの少し腕が触れるだけで顔を赤くさせて視線を逸らす。そんな二人を眺めながら、ゆっくりと西区へと進んで行った。
まずはお勧め通りにオービヤン教会へと足を踏み入れた二人は、礼拝堂の中をゆっくりと歩いた。
リアリルーデ王国国教であるフェルドミーチェ教は、床に直接膝を付いて祈りを捧げる為、礼拝堂は白で統一されているが、同色の大きさ違いのタイルを上手く組み合わせ、複雑な模様を描き出していた。
祭壇も同様で、フェルドミーチェ神を象った物が一番奥の壁に飾られている。
この礼拝堂の壁に飾られている絵が、初代エドナ辺境伯が描かれた絵で、それは初期のエドナ地方を上手く描き出していた。
荒涼とした大地、ぽつりぽつりとある民家、農耕地は痩せ衰え、作物が実らない、それが初期のエドナ地方だった。やがて水路が出来、周囲に緑が増えて来る。
森の木々を移植したのか、若木がたくさん植えられ始め、そこで働く人達の顔に笑顔が戻っている。
「……エドナの歴史なのね」
「そうみたいだね」
大切に保管されて来たのであろうその絵を二人で眺めながら、エドナ辺境伯のご先祖たちが如何にこの地を豊かにするか、考えて発展させてきたことが窺えた。
「素晴らしかったわね」
「そうだね。僕も、もう少し早く来るんだった」
「あら、それじゃ初めてを共有できなかったじゃない」
「んー、でも、エリンに色々教えたかったなって、そう思ったんだよ」
「そ、そんなの、二人で学んで行けばいいじゃない」
「……そうか、それは良い考えだねエリン」
「え?ええと、そう、かしら?」
「うん、素敵な考え方だよ。やっぱりエリンは凄いよ」
「べべ、別に凄くないわ。リアンの方が凄いもの」
ジルがバシバシとドニの背中を叩き、ドニはまた魂を口から出していた。
自分の事を凄いと言ってくれる恋人が欲しいと、ドニは切実に思う。あんな風に、少し頬を赤らめて、照れながら褒められたら。
そうしたらきっと、俺は誰よりも強くなれるのに――。
そう思ってしまう残念脳筋ドニは、ジルに促されて口から出ていた魂を戻して歩き出した。
「次は、アニエスの庭、かな?」
「ええと、初代エドナ辺境伯の奥様の名前が付いた所よね?」
「そう。公園になってて、お屋敷も残ってるよ」
「そうなの?」
「うん。ここは一度祖父と一緒に行った事があるんだ」
「じゃあ、リアンにとっても思い出の場所なのね」
「うん……、そうだね」
アニエスの庭にある初代エドナ辺境伯のお屋敷は、絵画を嗜まれた初代にちなんで、色んな美術品が飾られている。提供されている物の八割は代々のエドナ辺境伯で、どうせしまっておくのなら、皆に見てもらいなさいと言う何とも太っ腹な一族である。
当然の事ながら警備はとても厳重だ。
アニエスの庭に入るにも、お屋敷に入るにもお金が必要な所で、これである程度の線引きをしていると言う事だろう。
そうして二人でアニエスの庭に入り、きちんと手入れが為されているその庭で、ベンチに座って庭を眺めた。並んで座っても微妙な距離が開いているのは、二人がまだ手を繋ぐだけで精一杯の恋人同士である事を物語っている。
「ああ、俺汚い、穢れてる」
「目の前に行って踊り狂いたいっ!」
ちらりと視線を向け合っては頬を染め、恥ずかしそうに笑う二人は、静かに二人の時間を堪能してから邸の中へと入って行った。
正直、屋敷としてはあまり立派な建物ではないが、それこそがエドナの始まりを意味している。丁寧に丁寧に手入れを続けて来たその家は、大切にされているのがとても良く解る。
天井も壁も床も綺麗に磨かれており、壁には絵が飾られていたり、時に謎の物体が置かれていたりする。
天井に描かれた絵も見事で、二人はあちこちへ視線を走らせながら、屋敷の中をゆっくりと歩いて楽しんだ。
「ドニ、俺達も手を繋ごうか?」
「壊れましたか!?とうとう壊れましたかジルさんっ!?」
「あああ、ルイーズ、会いたい、会いたいよ」
「テメエこの裏切り者がっ!」
「思いっきり抱き締めてキスしたい。ねっちょり堪能したい!」
「この薄汚い大人は子供の毒にしかなりませんねっ!」
同じ時間にここを訪れていた人達は、リアンとエリンを微笑ましく見つめ、その後ろにいるゴツイ男と、おちゃらけた感じの男が並んでいるのを見て眉を寄せていた。
存分に邸の中を堪能した二人は再びアニエスの庭に出て、季節ごとに違う庭になっているのを眺めながら、その場を後にした。
そのまま歩いて、西区でお勧めの食事処、フラヴィの定食屋へと入った。
少しガラの悪い男がいた為、急遽二人にジルとドニが混ざりこんで、四人で昼食を摂った。食べている最中はさすがに手を放していた二人は、「これ、美味しいよ」とエリンが自分の皿からおかずを一つ、リアンの皿に移した。
それに笑顔を浮かべたリアンが、「じゃあ、これが僕のお勧め」と言ってエリンの皿に移すのを間近で見せ付けられ、ドニはひたすら食べ続け、ジルは「ああ、ルイーズ」と言いながらスープを掻き回し続けていた。
「そう言えば、聞きたかったんですけど」
「……ん?俺?」
「はい、ジルさんです」
「あー、うん、なんだろう」
「あの、ルイーズとはどれぐらいのお付き合い何ですか?」
「ど、どれぐらい?それ聞いちゃう?ねえ、ここで聞く?」
「おい、正気に返れ、穢れた大人めっ!」
そう言ったドニがジルの後頭部をバシッと叩くと、いてえなこの野郎と言いながらも、ジルが疲れたような声で「ああそうか、そっちね、そっち」と言いつつ教えてくれた。
「ルイーズとはもう二年とちょっとになるよ」
「二年とちょっと……。えっと、ジルさんはルイーズのどんな所が好きですか?」
「色気む゛っ」
「子供に何て事言うつもりだアンタ!」
「わーったよ、ったく。んー、どんなって聞かれると困るんだけどさ。ルイーズってさ、不器用なんだけど色んな事に一生懸命なんだよね」
「ああ、うん、わかります」
「そうなんだよ。まあ、そう言う所に惹かれちゃってんのさ」
「……私も、ルイーズのそう言う所が好きです。ルイーズは、いつも全力でぶつかってくれるから、それが凄く嬉しいんです」
「そうなんだよねえ。不器用だからそうなっちゃんだよねえ」
そんで、傷付いちゃったりして泣く事が多いんだけど、エリン嬢ちゃんは知らない方が良いよねえ。そうしてジルは恋人の姿を思い浮かべ、今日も思いきり抱き締めようと心に誓ったのであった。
「ねえ、リアン」
「なに?」
「あのね、私、努力するから」
「え?」
「ええとね、外にはハンターがいっぱいいるから、だから狩られないように気を付けなさいって、ルイーズが教えてくれたの」
「ハンター?」
「そうなの。怖いよね、狩られる事があるなんて知らなかったよ」
「…………えっと、確かに気を付けた方が良いと思うよ、エリン」
リアンの答えにジルとドニがぐふっと噴き出したが、エリンの耳には入らない。
「やっぱりそうなのね?外って怖いのね。領都から出なければ大丈夫なのかなあ?」
「そうだね。出掛ける時にこうして守ってもらってるのはその為だし、ここにいれば大丈夫だよ」
「そっか。やっぱり、狩られないように努力しなきゃだね」
「そうだね。エリンは可愛いから気を付けてね?」
「か、可愛い、とか、その、リアンだって気を付けてよね!」
「うん、気を付けるよ」
「……私も気を付けるね」
「うん」
ニコニコ笑うリアンがエリンの頭を撫でると、ジルが自分の胸を掻きむしり、ドニはまた魂を口から出していた。
「午後はどこへ行こうか」
「あ、ええとね、確か西区のニノン通りって書いてあったよ」
「じゃあそこに行こう」
「うん」
そうして四人でフラヴィの定食屋を出ると、ジルとドニは再び後方へと下がって行った。近付き過ぎると自分が火傷する、とよくよく理解した。
西区のニノン通りは、賑やかな声に包まれた商人通りで、露店が並んだ通りを歩きながら、安物の指輪を見たり、耳飾りを眺めたり、小物雑貨の露店を覗いては笑い声を上げた。
「あ、これすごく良い香りがする」
「その香りが好きかい?」
「はい。何の香りですか?」
「ブランホアって花だよ。白い花で、一つの茎にまあるい小さな花がたくさん付くのさ」
「ブランホア……」
「これ、二つ下さい」
「はいよ」
「か、買うの?」
エリンの問いに、リアンがにっこり笑い、差し出された袋を受け取った。
「エリン。これ、一緒に使おう?」
「一緒に?」
「うん。僕も今日からこれを使うから、エリンも使って?」
「え、でも」
「そうしたら、同じ匂いがするなって、思ったんだけど……」
リアンは自分がどれだけ恥ずかしい事をしたのか今気付いた。だがもう遅い。
エリンが気に入った香りが自分から漂えば、エリンが傍にいるような気がするんじゃないかと、そう思っただけだったのだが。
「良いの?」
「も、勿論だよ」
「……嬉しい、ありがとう」
顔を真っ赤に染めながらも、喜んでくれたエリンに袋を差し出した。
自分の分は落とさないようポケットにしまい込む。
「この石鹸が無くなる前に、また来よう?」
「うん!」
そんな可愛らしい二人を眺めていたジルが、ドニに二人の傍へ行くよう命令してから、自分も同じ香りがする石鹸を二つ買いこんだ。
リアン、お前はなんてムッツリなんだと思いつつも、十七だと言う彼の年齢を考えれば仕方の無い事かと笑ってしまう。
確かに、同じ匂いがするとなれば色々と捗る事だろう。
敢えて言及はしないが、同じ男として賛同しようじゃないかと、ジルも買い込んだ石鹸をルイーズに渡す事にして、ホクホクしながら仕事に戻った。
ドニに恨めし気に睨まれ続けた帰り道、途中の露店でささっと買ったサンドパンを渡してやれば、ドニはサンドパンに恨みでもあるのかって勢いで食い千切りながら、全部自分の腹の中に納めていた。