第一話 辺境エドナへ
魔導士であるエリン・ベイルは、上司に不能の呪いを掛けた事で、辺境へ飛ばされる事になった。しかし、エリンは後悔していない。
「エリン、ありがとう」
「いいの。これでアイツの被害者が出ないと思うと清々する」
「でも、そのせいであなたが辺境に飛ばされるなんて」
「仕方ないわよ。まだ男社会だから、いつだって女性の意見は無視されるもの」
エリンが不能の呪いを掛けた上司は所謂『セクハラ野郎』だった。
魔導士の女の子の胸やお尻をさりげなく触ってくる男で、何度も何度も本人に直接文句を言い、上に掛け合ってどうにかしろと言い続けて来たと言うのに、上司は処分もされず注意も受けず。
結局、頭に来たエリンが呪いを掛けた途端、不法に魔術を放った罪とやらでエリンが辺境に飛ばされる事となってしまったのだ。
「でも、あの人にはお咎めなしだなんて酷すぎるわ」
「大丈夫よ。これからは、呪うわよって言えばおとなしくなるから」
エリンがそう笑顔で請け負えば、同僚たちがやっと笑ってくれた。
王城で魔導士として活躍していたエリンからすれば、辺境の地方へ飛ばされるというのは恐ろしい。王都から出たこともなかったエリンは不安を抱えていたのだけれど、それをおくびにも出さず、笑顔で同僚たちと別れたのであった。
自分の荷物を詰め込んだ木箱が二つと、服を入れたトランクが一つ。
たったそれだけで王都を出たエリンは、辺境の地、エドナまでタクタクの旅を楽しむ事にした。タクタクと言うのはこの国の庶民の移動手段の一つで、魔獣のタケスが引っ張る荷車の事を言う。
タケスは全長三メルガ、太さは二メルガのぬめっとした軟体系の魔物の一種で、体の横にあるヒレを動かして移動する。これが割と速い為、遠方への移動手段はタクタクが主体になっているのだ。
お金持ちは自分の飛竜で移動するが、一般人は皆このタクタクで移動する。だからエリンも、王都からまずは南東に抜けるタクタクに乗り、次に東へ向かうタクタクに乗る予定だ。
最初のタクタクの最終地点であるゴナ地方のラデナ街でタクタクを降りたエリンは、荷物を抱え、乗り合い所の宿屋に入った。
「部屋は空いてますか?」
「一人かい?」
「そうです」
「あるよ。一泊二食付きで八百二十マルレ」
「えっと、これで」
エリンが出した身分証明に宿屋の主人は笑顔で頷き、魔道具を出した。
「はい、どうも。部屋は階段を上がって三番目のドアね」
「判りました。あの、この木箱を預かってもらうことは可能ですか?」
「中身を確保したいなら一泊三百マルレ、失くなってもいいなら百マルレ」
「三百で」
「はい、どうも」
結局、一泊するのに千マルレが飛んだかと溜息を吐きながらも、エリンはトランクだけを持って階段を上がった。三番目のドアに鍵を差し込み、ドアを開けて中へと入る。
ベッドが一つ、小さなチェストとテーブルとイス。それだけが置かれたその部屋で、やっと息を吐き出した。
王都で生まれ育ったエリンは、正直に言えば王都を出る事が怖かった。
厳密に言えば王都の外に出た事はある。魔獣の掃討を行う為に、騎士達に同行する仕事があるからだ。だけど、帰る場所は王都であったし、安心安全な点から言えば、王都以上の場所はないと思う。
それなのに、あのクソ上司のせいで辺境へ行く事になるなんてと、悔しいし不安で堪らない。エリンだって嫌な気持ちだったのをずっと耐えて耐えて頑張って来たのに、たった一度呪いを掛けただけで大騒ぎをされた。
どうせなら呪い殺してやれば良かったと歯噛みする。
魔導士長はクソ上司の言い分だけを聞いて、エリンを辺境へ飛ばした無能だ。
ふう、と溜息を吐き出し、まあいいと、怒りを霧散させて食堂へと降りた。タクタクのターミナルになっているこの街は、色んな所からやってくる人で溢れ返っている。
食堂も人が多かったけど、相席させてもらう事で食事にありつく事ができた。
「君は、どこに行く予定なの?」
相席させてくれた男が話し掛けて来て、エリンは顔を上げた、
赤い髪が小鼻の辺りまで伸びていて、黒縁の分厚い眼鏡をかけた男だった。
「エドナよ」
「わ、同じエドナに行く人がいると思わなかった。里帰りか何か?」
「仕事で行くの。あなたは?」
「僕はエドナに住んでいて、里帰りの帰りなんだ」
「……そう」
「ここからエドナまではかなり遠いけど、大丈夫?」
「大丈夫よ」
目の前の男はエドナの話しをしてくれたけれど、それが本当の事なのかエリンには判断できない。エリンは今、クソ上司のお陰で男性不振に陥っているのである。
「あなたが何処へ行こうとどうでもいいわ」
「……ごめん、気分を害してしまったね」
本当に申し訳なさそうに言われて、エリンはずきっと心が痛む。
荒んでいるのはクソ上司のせいであって、目の前の男のせいではない。
「あー、と、その、私もごめんなさい。ちょっと、色々あってあまり男の人と親しくなりたくないの」
「そ、そうなんだ。いや、僕こそごめん。相席したからと言って別に話をしなくてもいいんだ、大丈夫。気を使わせてしまったね」
「いいの、私も悪かったってわかってるから」
何となく気まずくなって黙ってしまったけれど、エリンは必死に考え言葉を紡ぎ出す。
「あ、あの、私は明日のタクタクに乗る予定なんだけど、あなたは?」
「あ、ああ、僕も明日のタクタクに乗る予定だよ」
「じゃあ、同じタクタクなのね。道中長いけど良かったら仲良くしてほしいわ」
「いいの?」
「ええ。お喋り仲間がいれば気が紛れるでしょう?」
そして、長い道中のお喋り仲間を手に入れたエリンはその日、早めにベッドに潜り込んだ。寝坊して乗れなかったなんて恥ずかしすぎるからではあるが、ずっとタクタクの中で揺られ続けて疲れていたせいでもある。
頼んだ時間に起こされたエリンは、まだ寝ぼけている頭を振って起き出し、身支度を整えて部屋を後にする。
朝食をとるために食堂に入れば、昨日相席した男が手を上げていた。
「おはよう。早起きね」
「寝過ごして乗れなかったなんて恥ずかしいからね」
「まあ、私と同じ理由の人がいるわ」
そう言って笑い合いながら朝食を摂り、預けてあった荷物を受け取った。
「良かったら持とうか?」
「大丈夫よ。あなたは荷物はないの?」
「先に荷物だけ送ったんだ」
「え、そんな方法があるの?」
「知らなかったの?」
思わず顔を見合わせた二人がぷっと同時に笑い出し、男の申し出にエリンは礼を言いながら荷物を渡す。
「あ、そう言えば僕の名前」
「ああ、そう言えば名前を知らないわ」
そうして再び笑い合った後、今更だけどと名乗り合う。
「僕はリアン。エドナで魔具を作っているんだ」
「あなた、魔具士なの?すごいわね」
「いや、そんなにすごくはないよ」
「すごいわよ。魔具士って免許制だもの、それに受かるだけでもすごい事よ」
「そうかな。ありがとう」
「ねえ、エドナに着いたらあなたが作った魔具を見せてね?」
「ああ、勿論いいよ」
「ありがとう、楽しみにしてる。私はエリンよ。魔導士なの」
「魔導士!?それ、君の方がすごいじゃないか」
「全然すごくないわ。だって、クソ上司のせいでエドナに行くことになったんだもの」
「え、どういう事?」
二人で東に行くタクタクを待っている間、そうして互いの事を話してた。
最初はたくさんの人が乗り込んだタクタクだったけど、最終地点に辿り着く前に、乗っているのはリアンとエリンの二人だけになってしまう。
それでも、長い道中を共に行く人がいる事が心強く、リアンの存在がとてもありがたかった。
リアンはクソ上司とは全く違って、とても紳士的にエリンに接してくれたお陰で、エドナに着く頃にはエリンの警戒心はすっかりなくなっていた。
「ああ、やっと着いたね」
「そうね……」
二人で顔を見合わせて乾いた笑いを浮かべてしまう。
ラデナ街を出て既に五日。ずっとタクタクに揺られて座っていた二人の疲れは、ピークに達していた。
「エリン、良かったら今日は家に泊まる?」
「いえ、いいわ、大丈夫。気を使ってくれてありがとう」
「エリンが大丈夫ならいいんだけど」
クソ上司に言われたならば即殴っている所だけど、リアンに言われると全然腹が立たないどころか、心配してくれてありがとうって気持ちになるから不思議だ。
やっぱり、日頃の行いってのは大切なのだとしみじみ思う。
「じゃあ、送って行くよ。もしかして辺境伯のお屋敷かな?」
「そうなの。お屋敷、どこか知ってる?」
「勿論。案内がてら、荷物を運ぶよ」
「ありがと。実は期待してた」
そう言って笑い合いながら、リアンと一緒に荷物を抱えて歩いて行き、大きなお屋敷の門前で立ち止まった。門には兵士がいてジロジロと見て来る。
「ええと、ちょっと待ってね。確かここに入れたのよ」
そう言いながらエリンが身に着けているフードマントをごそごそと探り、やっと見つけたらしい魔導士長からの辞令を差し出した。
「魔導士のエリン・ベイルです。辞令によりこちらへ赴きました」
「……何も聞いていないが」
「ええ?辺境伯に聞いて来て下さい。この辞令、お渡ししますので」
そうしてエリンが渡した辞令書を持った門兵が中へと入って行き、リアンとエリンは門前に残された。木箱を下ろし、そこに腰を下ろして二人で話をしながら待つ。
「リアン、何かごめんね」
「いいよ。エリンが一人で来なくてよかったよ」
「そう言ってくれるなんて、リアンてお人好しよね」
「そうかな?」
「そうよ。だって私、そのお陰ですごく助かっているもの」
「そうなの?それなら嬉しいよ」
そう言ってにこにこと笑うリアンに、エリンも笑った。
エドナは海風が吹くから夜は寒いのだとリアンが言っていた通り、夕方に近い時間なのに段々冷えてきた。確かに王都とは違うその気候に、エリンは不安になって空を見上げる。
「大丈夫だよ。辺境伯はとてもお優しい方だから」
「うん……」
元気付けてくれたリアンの言葉に頷き、門兵が戻って来るまで二人で話をしてた。
「魔導士エリン・ベイル殿。中へどうぞ」
「あ、はい、ありがとうございます」
「それと、魔具士リアン殿もどうぞ」
「よろしいのですか?」
「はい。辺境伯がお二人を招くようにと」
門兵の言葉にエリンはほっと息を吐き出した。
一人で辺境伯の所へ行くのは怖かったのだ。リアンが共にいるのならば、何となく安心感がある。
「じゃあ行こうか」
「うん」
そうしてリアンが持ってくれていた木箱の内一つを門兵が持ってくれたお陰で、三人で荷物を一つずつ抱えて屋敷の中へと入った。玄関を入ってすぐに迎えてくれた家人の手に木箱が渡り、トランクも預かってくれると言うので任せたエリンはやっと手ぶらになったことにほっとしつつ、リアンと共に広い邸の中を歩いた。
案内してくれている家人のおじ様の背中を追いながら、何となく声を出すのは憚られ、無言のまま歩いて行くと大きな扉が開いて中へと招かれる。
リアンと共に中へと入ればそこに、恐らく辺境伯だろう男の人と、その夫人と思われる女性がいた。
「遠い所をようこそ、魔導士エリン・ベイル殿」
「初めまして、エドナ辺境伯。それから、辺境伯夫人」
「楽にしてくれ。それと、魔具士リアン、突然招いてすまなかった」
「いえ、光栄です、エドナ辺境伯」
そうして示されたソファに並んで腰を下ろした。
二人共緊張していたけれど、優しそうな辺境伯とその奥方に、いつしか笑顔が出せるようになった。
「エリン殿、王都から何も通達をもらっていなくて、出迎えもせず申し訳なかった」
「いいえ、大丈夫です」
「道中、危険はなかっただろうか」
「タクタクで移動して来ましたので、大丈夫でした。それに、リアンがラデナ街から一緒だったので心強かったです」
「そうだったのか。リアン、親孝行はできたのかな?」
「はい、おかげさまで喜んでもらえました。これも辺境伯のお陰です」
「いいや、君が頑張ったからだよ」
エリンは、どうやらリアンは辺境伯と顔見知りだったらしいとこの時初めて知った。
魔具士という特殊な仕事をしているから、顔見知りでもおかしくはないのだけれど。
「エリン殿。あの辞令書を読んだが、君の口から説明を聞いてもいいかな?」
「勿論です」
辞令書には、エリンが危険な呪いを放った事、それによってエドナ辺境伯預かりとなる事が書かれていたはずだ。まったくあのクソ上司と無能魔導士長のせいで、下っ端は苦労ばかりだ。
「なんという事だ……」
「エリン、あなたの行いは正しい事だと言えますか?」
「胸を張って神に誓えます」
絶句した辺境伯の代わりに奥方に問われた事に、堂々とそう答えた。
「わかりました。魔導士長の判断が間違っていたとはこちらでは言えません。ですが、他の魔導士の証言を集める事はできます」
「はい」
「どうしますか?エリンが不当を訴えるのならば力になりますよ?」
奥方にそう聞かれ、エリンは悩んだ。
悩んで悩んで、自分がどうしたいのかが判らなくなる。
「ええと、上手く言えるかどうかわからないのですが」
そう前置きをしてからエリンが口を開いた。
最初は悔しくて悔しくて泣いた事、エドナ地方に飛ばされた事で誰も信じる事が出来なくなった事、だけど、リアンのお陰でエドナ地方の良い所をたくさん知る事が出来た事、そしてその良い所を存分に堪能したいと思っている事を告げた。
「まあ。ではエリンはエドナにいてくれるの?」
「良ければお世話になりたいと思っています」
「歓迎するわ。ねえ?」
「ああ、それは勿論だ。だけど、君の名誉を回復する手段はいくらでもあるんだよ?」
「ええと、王都に戻る時には確かに必要でしょうけど、今はエドナにいるしいいかなって思うんです」
自分が莫迦だったのだと、そう思える出来事だったと今なら思えるのだ。
だから、このままエドナで楽しく生きられたらいいなと思っている。
「あの、よろしくお願いします」
立ち上がってそう言って頭を下げれば、辺境伯と奥方、リアンも喜んでくれた。