最終話 (2) 『智者と賢者は論議を交わす』
「さて、どこから話そうか?」
「最初から、じゃない? やっぱり」
ふっと彼女は笑った。見たことのない笑い方だった。
「じゃぁまずは、私から質問しよっかな。どうして私をマークしてたの?」
「愚問だな」
「愚問、愚かな問い、ね。ふふ……『賢さと愚かさの間にある違いは、賢さには限界があることだ』」
ぴこぴこと人差し指を動かして、彼女は言う。
「限界のない愚かさの方が、無限大の可能性を秘めていて素敵だと思わない?」
「くだらんな。『愚者の最も確かな証拠は、自説を固守して興奮することである』。あまり話をわき道に逸らすな。日が暮れるだろう」
「なるほど、モンテーニュかー。チョーサーの薔薇伝記あたりを期待したんだけどなー」
愚者は己の舌を抑えられない、か。
もう何も隠すつもりはないのだろう。いや、そもそもあの時から私にはばれてしまっているのだ。今更鼻に付く格言の応酬をしたところで、痛くもかゆくもないのだろう。
私は無視して続ける。
「初めから、だよ。七々扇さん。私は君が『礼式喪失事件』を解いた時からずっと、君を疑っていた」
「へぇ……」
さほど大した事件じゃなかった。
ただ、複数人の礼式が同時に消え、誰かが盗んだんじゃないか、なんて疑心暗鬼がクラスの中に蔓延しようした時、彼女は鮮やかに事件を解決した。
その思考の組み立ては確かにロジカルで、理路整然としていた。
だが。
「あの時『誰かが盗んだんじゃないか』と言い始めたのは、他でもない君だろう」
「……」
それは例えば、医者がウィルスを撒くような、探偵が殺人事件を起こすようなものだ。
自分が大きくした事件を自分が解決して、脚光を浴びる。
「そんな事をする人間に疑念を抱くのは当然のことだろう? おまけに君は、いつの間にかこの学院における探偵の様でもあり、相談役の様にもなっていた。人の心に普通よりも深く入り込むようになった君を、私は警戒していた」
私の言葉を受けて、七々扇さんは「なるほどね」と静かに笑った。
「正しいんだね、麗華さんは」
「……何が言いたい」
「別に? でも窮屈そうだなって思ったよ」
「……」
「まるで、そうあらなければならないって、正しくあらなければならないって、自分で自分を戒めてるみたいだね」
「……君が何を企んでいるのか、最初のうちは全く分からなかった。得体のしれない怪物が教室内に笑顔で鎮座している気がして、正直薄気味悪かったよ」
そんな中、七々扇さんは動いた。
日向奏汰という人間が転校してきたことで、物語は動き始めた。
「だから私が、奏汰君と必要以上に親しくしようとしているのを見て、麗華さんも奏汰君に近づいたんだね」
「あぁそうだ」
「あだ名で呼ばせようとしたり? やたらとボディータッチをしたり?」
その通りだ。私は、彼女が何故が執着している日向奏汰という人間にちょっかいを掛けることで、彼女の真意が見えて来るのではないかと踏んだ。
そして。
「そして中々尻尾を出さない私に業を煮やして、あの暗号を作ったって訳だね」
Detect the key and solve the following code. (鍵を推理し、以下の暗号を解け)
DCJSIARITUERLVROSES|TAERTFTAT
彼女の言う通り、あれはスキュタレー暗号だ。隠された文章は、確かにスキュタレー暗号として記していた。
だがそれは、あくまで第一の解読法に過ぎない。
WOOPS! You are loser IN GAME! (あらあら、あなたの負けです!)
I pray we can meet when cicadas emerge. “Nothing” will go forward once, but take nothing. From Vigenere
礼拝堂に残したあの文章にこそ、真の文章を浮かび上がらせるヒントが隠されていたのだ。
今度は私の番だね、とでも言うように、七々扇さんは話し始めた。
「あの中で唯一、不自然に大文字で記されたIN GAMEの文字。そして最後の From Vigenereの記述。これだけあれば、解くのにそんなに時間はかからなかったよ」
彼女の言う通り、あの文章の中で記したIN GAMEとFrom Vigenereには大きなヒントが隠されている。
「まぁちょっと強引な気がしたけどねー。IN GAMEを入れ替えたら、ENIGMA、つまりエニグマ式暗号を示している。加えてFrom Vigenereはヴィジュネル式暗号」
エニグマ式暗号は、キーボードとそれに呼応するローターの組み合わせによって判読を困難にしている。
一方、ヴィジュネル式暗号は、ヴィジュネル方陣と呼ばれるアルファベットの変換表を基に暗号を作成する。
そんな部分の説明はすっ飛ばして、彼女は続ける。
「つまり、最初の暗号文をエニグマ式暗号とヴィジュネル式暗号を組み合わせることで、もう一つの文章を解くことができる、ということを示していたんだよね。だとすれば、鍵となるのはその平文と鍵」
自分の作った暗号が、ここまで綺麗に解き明かされるというのは、腹立たしい反面、もういっそ爽快でもあった。
「cicada3301。私も好きだったなぁ」
二〇一二年、一月。
一人の男性がインターネット上のある書き込みを発見した。意訳すれば、内容は以下のようなものだった。
我々は聡明な人間を探している。
この画像の中にはあるメッセージが隠されている。
それは、我々にたどり着くための鍵だ。
全ての謎を解き、我々の前に現れる人間がいることを祈っている。
3301
アップされていた画像はセミ、つまりCicadaの見た目をしていた。
最後に書かれていた3301という文字から、この事件はやがて「cicada3301」と呼ばれるようになる。
「WOOPS. Just decoys this way! (あらあら、ひっかかりましたね) 一つ目の画像に隠されたURLを見つけ、飛んだ先にあった文章は、こんなんだったよね」
「あぁ。まぁ結局、その文章もフェイクだったわけだが」
「ふふ、そこも模倣したわけだね」
WOOPS! You are loser IN GAME! (あらあら、あなたの負けです!)
I pray we can meet when cicadas emerge. “Nothing” will go forward once, but take nothing.(セミが顔を出す頃には出会えることを祈る)
七々扇さんの言う通り、この文章はエニグマ式暗号とヴィジュネル式暗号を示す他にも、cicada3301が平文と鍵と見つけるヒントになる事を示していた。
「“Nothing” will go forward once, but take nothing. だっけ? 直訳すると、「無は一進むが何も取らない」。これだけだと意味がよく分からないけど……3301があればなんとなく分かるよね」
DCJSIARITUERLVROSES|TAERTFTAT
“Nothing” will go forward once, but take nothing.
Cicada3301
そして、エニグマ式暗号とヴィジュネル式暗号。
これが真の文章を浮かび上がらせるために必要な情報だった。
「この文章が示す通り、もとの暗号文を三、三、〇、一の順に取っていくとJ、A、I、E、V、O、S。この謎の棒は、ここまでしか原文を使わないって意味かなって思ったから、ここまでで一旦保留。エニグマ式暗号に乗っ取って、JAIEVOS。これを平文、CICADAを鍵として、ヴィジュネル方陣を元に変換すると……LIKEYOU」
「正解だ。腹が立つほど完璧にな」
「ひどいよね。LIKE YOU(お前みたいだな)なんてさ。あの暗号の横にあった絵、ウォレリア・メッサリナでしょ?」
「ご名答。ローマ時代最悪の悪女として名高い皇妃だ。君にピッタリじゃないか」
「私は性欲を持て余してなんていません!」
ウォレリア・メッサリナの有名なエピソードとして、性欲を持て余して街で売春婦をしていた、という話がある。
事実かどうかは分からないが、火のない所に煙は立たないというし、それっぽいことはあったのではないかと思う。
「だから君はあの時思わず叫んだ」
暗号の解読、そしてあの画像がウォレリア・メッサリナであるという事。その両方を知った人間だけが初めてあの場で叫ぶことができる。
あの、カナタが話していた極僅かな時間だけで暗号を解読する事など普通の人間にできるわけがない。
「君が叫んだ瞬間、私は確信した。こいつは女子高生の皮を被っただけの化け物だと」
「自分の事を棚に上げてよく言うよねー……」
棚に等上げていない。
暗号と言うのは作るのはそんなに難しくない。
解読する方の事を考えなければ、難易度はいくらでもあげられるし、そこに頭の良さは必要ない。だが、解読する側はそうはいかない。
与えられた僅かな情報から鍵を見つけ、整理し、慎重に解かなければならない。少しでも間違えれば全く違った答えが出てしまう暗号において、頭の中だけで解き明かせる人間などそうそう居はすまい。
「あれは失敗だったよねー。久しぶりに頭思いっきり使ったから、つい楽しくて油断しちゃった。全く、麗華さんは罪な女だよね」
両手を腰に当てて、七々扇さんはそう言った。
罪な女、か。
それこそ自分の事を棚に上げてよく言うよねと、そのままお返ししてやりたい。
綺麗にブーメランが返っていって、彼女の頭の上に突き刺さっている。
「だが……私はこの時点では既に君に負けていた」
「……ふふ」
その後、中々本質を見せない七々扇さんに業を煮やしていた矢先。
私はカナタからあの写真を見せられた。
そこには、私が七々扇夢莉だと思っていた人間とは全く別の人間が映っていた。
彼の話を聞き。
写真を再度見つめ、そして私は気付いた。
私は――――はめられていたのだと。
「今度は私からの質問だ、七々扇さん。一体いつから、この状況を見越していた?」
「答えは貴方と同じだよ、麗華さん。最初から、だよ」
こつん、と靴音を響かせて七々扇さんが一歩こちらに近づいた。
「貴方が私を最初からマークしていたように、私も貴方を最初からマークしていた。ただ、それだけのこと」
「……自分の計画を……教室の配置と自分を入れ替える計画を進める障害になると判断した、ということか」
「まぁそゆこと。だって麗華さん、頭いいんだもん。高校生基準で言えば規格外も規格外。勘弁してよーって感じ」
だけど、と彼女は続ける。
「よくよく観察してみると、貴方には二つも弱点があった」
「……っ」
「貴方は、優しすぎる」
「……」
「だから後手に回ってしまったんだよ」
「……」
「寄り添う天才は、寄り添うが故に、ただの天才を超えられない」
もしあの時。
私が彼に真実を伝えてしまったらどうなっただろうか。
彼女は自分から姿を消したのだと。
彼が好意を寄せている七々扇夢莉が、彼に近づいた理由が純粋な好意からではなかったと。
それを知ってしまった時、彼の心はどうなってしまったのだろうか。
「奏汰君の事を考えると、貴方は答えをすぐに提示することができなかった」
「……」
「奏汰君自身にこの謎を解かせることで、徐々に真実に近づいていく事で、心にかかる負担を軽くする。それが貴方の考えた最善の手段だった」
「……事実、そうだった。カナタはきっと乗り越えられる」
「どうかな?」
気付けば七々扇さんは私のすぐ真横に来ていた。
そしてそっと、私の耳元で囁いた。
「一方的で、決して届かない恋心ほどの呪いはないんだよ。それが一度手に入ると期待してしまった恋なら、尚更」
「貴様――――っ!」
「どうして怒るの?」
胸の内側に熱いものがこみ上げてきて、いきおいよくふりむいた先にいた七々扇さんは。
とてもとても、冷たい目をしていた。
「いいじゃない、別に。彼がこれから先誰を愛そうと、誰を愛すまいと。貴方には関係ないでしょう?」
「それは……」
「好きなの? 彼の事」
「っ」
言葉に詰まった。その隙を付いて、七々扇さんは畳みかけるように言った。
「それは勘違いだよ、麗華さん。貴方はただ、彼を利用しただけ。その過程で情が湧いて、好きになったような気がしているだけ。言うなれば、ペットに対する気持ちみたいなものだよ」
「そんな事は――――」
「ない? 本当に? 絶対違うって、そう言い切れる? 彼が私に対して好意を抱いていたから、だから嫉妬みたいな感情を抱いて、それを彼に対する好意だと勘違いしているんじゃないの?」
思い出すのは、カナタが私のピアノを聞きに来た時のことだ。
『君はNTRという単語を知っているか?』
あぁ……言い切れない。始まりが、七々扇さんの本質をするために近づいたことだったから。
彼に対する気持ちと、七々扇さんの存在を切り離すことができないから。
私の彼に対する純粋な気持ちを、綺麗に抽出することができない。
この感情はあまりにも醜くて、目を背けたくなるくらいに恥ずかしい色をしているから。私はまだ、結論を出す事が出来ない。
それでも。
彼に近づき、彼を利用し、彼の気持ちを踏みにじった彼女に対するこの気持ちだけは、本物なんだと。そう言い切ることができる。
私は彼女の言葉を無視し、言う。
「つまり君は、私が計画の邪魔になるから、カナタに近づくことで私の行動を制限した、ということだな」
「そだね」
「二つ、疑問がある。一つはいつからこの計画を考えていたのか、ということ。もう一つは、結局君の狙いは何だったのか、という事だ」
「二個も質問するなんて欲張りだねぇ」
「まじめに答えろ」
「うわぉ怖い。……んーとね、一つ目は簡単。奏汰君に写真を撮られてから、だよ」
写真を撮るポーズをとって、彼女は言った。
「入学してからずっと、どうやったら麗華さんを無力化できるか考えてたんだ。あの日もぼーっと窓の外を見て、教室内の配置のチェックの合間に考えてたの。そしたらびっくり。いきなり誰か入って来て、気付いたら写真撮られちゃってたんだ」
「写真を撮られたのは、わざとではなかった、という事か」
「あはは、超人じゃないんだから、そこまでは見越せないよー。で、その時思ったんだよ。これ、使えるなって」
カナタの近くにいることで、私の興味を引くこともできる。
カナタがスマホで写真を撮らないか、可能な範囲で見張る事もできる。カナタが自分の変化に気付くかどうか、逐一観察することも、できる。
「まぁ、可能ならスマホを取り上げるか画像を消したかったんだけど、それは出来なかったしね。だからこの計画にしたってわけ」
筋は通っている。うっかり写真を撮られてしまった状況の中では、最善手だ。
「ど? これでい?」
「いい訳あるか。まだ二つ目の質問に答えてもらっていない。君の狙いは、結局何だったんだ。私は確かに、カナタに真実を告げることはできなかった。けれど、彼は結局真実を突き止めた」
彼女の入れ替わりのトリックも。
教室の配置が入れ替わっていたことも。
もう彼は自分で解き明かした。教室の配置の件は、今からならまだ取り返しがつく。教室内の測定をし直せば、スクフェスが失敗するようなことはないだろう。
彼女の身代わりになっているあの子が追放されるような事もないだろう。
「私を止めたところで、結局カナタに真実を暴かれた。それで君の計画はおじゃんになった。そういう事なのか?」
「そだよ? いやー、まいっちゃうよねー。折角色々頑張ったのに、ぽしゃっちゃうんだもん」
からからと笑いながらそんな事を言う七々扇さんに、私は言葉をぶつける。
「嘘をつくな」
「ほぇ?」
そんなわけがない。
彼女ほどの人間が、これほどの労力をかけた計画が。
たかが文化祭を失敗させるためだけに行われた、なんて。
そんなバカな話があるか。
「ここまできたら洗いざらい吐いてもらうぞ。本当の目的は何だったんだ?」
「……ふーん」
私たちは背中合わせになっていた。
お互いに逆の方向を向いたまま、それぞれが何もない空間に声を投げかけ合う。
「……麗華さんはさ、今回のトリックのキモは何だと思う?」
彼女の表情は見えない。声から感情を読み取るなんてことも、私にはできない。
「……認知バイアス。今回の場合は、変化盲。Change blindnessと呼ばれる現象を取り扱った点だ」
「流石」
一口に認知バイアスと言っても、その単語が意味する範囲は非常に広い。
あえてこれを概括的に一言で表すのであれば、人が何かを認識する上での盲点、とでも言えばいいだろうか。
先入観によって真の情報をとらえられない事であったり、無意識のうちに刷り込まれた印象操作によって偏ってしまった思考回路の事だ。
ハロー効果、バーナム効果、ザイアンスの法則、認知的不協和。実に様々な名前が付いた現象がある。
例えば自分の家に帰ったとき、に明かりがついていたとしよう。その時人は、誰か知らない人が部屋に侵入した可能性よりも、自分が消し忘れたのだという可能性の方を無意識のうちに選択する。
例えそれが、真実でなかったとしても。
今回の「変化盲」は、簡単に言えば、私たちが無意識のうちにおかしてしまう「変化の見落とし」だ。
一九八八年にこんな実験が行われた。
実験者が通りすがりの人に声をかける。
実験者とその人が話をしていると、ドアを運んでいる作業員たちが二人の中を割って入り、通り過ぎていく。このときに会話をしていた実験者がドアの裏に隠れて、別の人と入れ替わる。
この時、全く別の人物に変わったにもかかわらず、そのことに気づいたのは十五人中たったの七人だったという。
ある時は体型が変わり、ある時は人種が変わり、時には性別までかわっているにもかかわらず、半数の人は気づきもしなかったのだ。
話している相手が変わるという「あり得ない事象」を、脳が無意識のうちに排除した結果と言える。
「教室の中の備品の配置が変わるなんてあり得ない。クラスメイトが別人になっているなんてあり得ない。そういう認知バイアスに付け込んでいる。おまけに、人の脳は連続的な変化をとらえることに非常に弱い。二つの認識の歪みをついた、極めて高度な犯行だ」
「その通り、何の補足説明もいらないくらい完璧だよ。しいていうのであれば、私の連続的な変化は、出来る限り全員に見てもらう必要があった」
「なるほど、だからラジオ体操か」
「そゆこと」
連続的な変化は、ある一点を切り取るだけで明瞭な違いとなって現れる。
例えば一日に一ミリずつ髪の毛を短くしていたとしても、三か月振りに会った相手にとっては一気に百ミリ短くなったのと同じ事象となる。
だからこそ彼女は、毎日生徒が顔を合わせるこの学院で、皆の前に立つラジオ体操を行う事でその印象を色濃く植え付けたのだろう。
そうなると生徒会の面々も……いや、これはいい。今は置いておこう。
「もう分かったんじゃない? 私が今回やりたかったこと」
「……実験、か?」
「……」
「認知バイアスにつけこんだ犯行が、どの程度有効なのか、それを調べていたのか? 環境が特殊な、閉鎖的で人間関係が濃密なこの学院で」
確かにそれならば理解できるかもしれない。
その背後にある動機は不明だけれど、こんなにも労力をかけた理由が実験や一種の試みなのであれば、或いは……そこまで考えた時、くすくすと笑いながら七々扇さんは言った。
「じゃ、それにしよっか」
「……なに?」
「ん? 私がわざわざこんなことをした理由だよ。それにしよっか。えーっとなんだっけ? 実験? うん、それにしよ。なんかそれっぽいし!」
こいつは一体何を言っているんだ?
今しがた、結論は出たばかりじゃないのか?
「あれ? 納得いかない? んー、じゃぁこういうのはどう? 今、七々扇夢莉と言う人間は、私の家でメイドをしていた七々扇亜依という半分しか血のつながってない妹が演じています。私はかねてから、七々扇家の家訓に捕らわれない彼女の事を羨ましく思っていました。そこで、彼女のパスポートも戸籍もすり替えて、私はこれから七々扇亜依としての人生を歩もうと思ったのでした!」
「何を……言っている?」
「あれ? パスポートのなりすまし取得って意外と簡単なんだよ? 身内なら尚更。戸籍の入れ替えはちょっと厄介だけど……でも方法がないわけじゃない。それくらい、麗華さんも知ってるよね?」
パスポートのなりすまし取得は近年問題になってきている。
日本人のパスポートはビザが無くても約百七十の国に入国することができるため、価値が高く狙われやすいからだ。
他人であれば偽装結婚をするのが一番手っ取り早い方法だが……身内であればもっと簡単に写真のすり替えや内容の変更を行う事が出来る。
いや、そんな事はどうでもいい。
どうでもいいんだ。
これ以上、情報を増やさないでくれ。
「んー、これも嫌かー。じゃぁじゃぁこれはどう? 実は私は奏汰君とは昔あったことがあって、その時奏汰君に深く深く傷つけられたのです。しくしく。大人になって再会を果たしたねちっこい私は、彼の心にふかーい傷をつけるべく、今回の案を立案したのでしたー。うーん、これも中々いいね? どう?」
「ふざけるな……」
「ふざけてないよ? 私、奏汰君とはチャット友達だしねー、結構前から。知ってた?」
やめろ。
やめてくれ。
心臓が耳の近くまで上がってきたみたいに、心臓の鼓動がいやに大きく聞こえる。
「ショパンの練習曲」
「……っ!」
びくりと、体が震えた。
「いい曲だよね。練習曲なのに、熱い情熱が盛り込まれてて。麗華さんが演奏するには、ギリギリ丁度いい感じかな?」
一般的に、練習曲は指の体操。誰かに聞かせるための観賞用ではなく、あくまで練習目的に使うものだ。
しかしショパンの練習曲、例えば「革命」「黒鍵」「木枯らし」、こういった曲はただの練習曲としての用途のみならず、観賞用としても極めて高い完成度を誇るのだ。
「貴方の二つ目の弱点。それは……沢山の等価値の真実がある時、それを一つに絞り込むことができない事」
「……」
「貴方は私の動機を絞り込めない」
私は。
何も言えなかった。
彼女は笑う。
「なんでかは知らないけど、解が同時にいくつも存在している時。等価の解釈がいくつも存在する時、貴方はその中から一つを選び取ることができない。音楽や美術の授業で迷いが見えてたの、気付かれてないと思った?」
ただ精密な絵を描くだけならば、写真を撮ればいい。
ただ楽譜に忠実な音楽を奏でたいのであれば、自動演奏に切り替えればいい。
これだけ技術が発展してもなお、こうして芸術の分野が残っているのは。
そこに感情を乗せることで、様々な解釈を加えることで、無数の可能性を示してくれるからなのだろう。
「ふふ……ちょっといじめ過ぎちゃったかな? まぁ私からの置き土産だと思って、受け取ってもらえると嬉しいな」
じゃぁね、と彼女はこの場を去ろうとした。
もう自分が話したい内容は一通り終わったのだろう。真相を告げることなく、彼女は私たちの前から消えていく。
私は結局、この会話の中で一度も彼女からイニシアティブをとることができなかった。彼女は全てを見越していた。私なんかよりも遥かに賢く、柔軟で、したたかだった。
完敗だ。この上ないくらいに。
「七々扇さん」
だから、こそ。
一矢報いたい。
あの余裕しゃくしゃくな表情を、少しでも歪めてやりたい。
「なに?」
その一心で、私は根拠のない言葉を振り絞る。
ただ、頭の中にふと浮かんだだけの言葉を、彼女に投げつける。
「君は一体、何歳なんだ?」
何言ってるの? あなたと同じに決まってるじゃない。
そんな風に言われると思っていたから。
「女性に歳を聞くのは失礼だと思うよ、麗華さん」
全く予期しなかった答えが返ってきた時、私はただただ面食らった。
「す、すまない」
「いいけどさー」
反射的に謝った私をちらりと横目で盗み見て、くすりと笑うと、彼女は今度こそ完全に私に背を向けてこつこつと歩き始めた。
「じゃ、麗華さん」
同い年が放っているとは思えない色香を振りまきながら、彼女は去って行く。
「またね」
そんなどうとでも取れる、意味深な言葉を言い残して。
私はその時、根拠もなく思った。
彼女が描いている道筋は。
彼女が綴ろうとしている物語は。
まだ、はじまってすらいないのではないかと。
そんな事を、思った。




