第五幕 フルメタル・ヴァージン
「近い近いっ。ケンボーもっとあっち行きなさいよっ」ミサキは噴水の脇にある腰掛けに座りながら、僕をしっしと追い払おうとした。
放課後。
僕はあの後すぐに理事長室に珠季の伝言を伝えに行ったのだけれど、茜はやっぱり登校してきておらず、リツコ先生とマスターも午後からは用事があって来られないということで、ミサキだけがバスケが終わってからジャージ姿のままとことことやってきた。
夕暮れの園庭、噴水の前で女の子とツーショット。
理想的なシチュエーションだ、相手がミサキでさえなければ。
さっきから、ジャージの下に着ているTシャツを引っ張ってくんくん匂いをかいでは「あー、くっさい。珠季のヤロー中途半端な時間に呼び出しやがって。シャワー浴びる時間なかったじゃんかまったく」などと言っている。色気なんか皆無だ。
だけどそれでも時間通りにちゃんと来るんだから、律儀なところがあるんだよなこいつ。
「近いったって仕方ないじゃないか、腰かけが二つしかなくて、並べて置いてあるんだから」僕は腰かけに座ったまま、ミサキに文句を言った。
「だったら腰かけを動かしたらいいじゃんか」
「動くわけないだろこんなもの。石だぞ石、この腰かけ」
そう、僕たちが座っていた腰かけは丸い円筒形で、すべすべした石でできていた。
直径は50㎝以上あるだろう、
座ったまま力いっぱい足を踏ん張っても、まるで地面に打ち付けられたようにぴくりとも動かない。
「だあもうっ、男のくせに言い訳が多いっ」そう言うとミサキはすくっと立ち上がった。
「な、何するんだよ?」
「いいからどきなさいよ」
「はあ?」僕はわけがわからないまま腰かけから立ち上がって、横に移動した。
ミサキが腰をかがめ、その腰かけに手を回す。
無理ムリ、そんなの相撲取りかプロレスラーでもない限り動かせませんって。
「むおっ」
え?
ゴリッという音がして腰かけが傾いた。
「ぬうううっ」
ま、まさか……。
いや、でも確かに浮いてる、ううう、うそだろ?
「づあああああっ!」
掛け声とともに、ミサキが腰かけを腰の高さまで持ち上げた。
じゅっ、重機人間かおまえはっ。
そのままミサキは、ずし、ずしと歩き、2mばかり離れたところで手を放した。
ずうううううんっ!
すごい地響きがして周りを取り囲んでいる草木がびりびりと揺れた。
「ほら、これで文句ないでしょ?」そう言いながらミサキは手をぱんぱんと払って僕の顔をじろりと睨んだ。
も、文句はないけどおまえ、お芝居の話のヒロインって自覚もないだろ?
「それにしても珠季おっそいなあ。ねえ、あいつ確かにここって言ったんだよね?」ミサキは何事もなかったようにそう言いながら、自分が座っていた腰かけの上におしりを下ろした。
「あ、うん。間違いない……と思う」僕も、ミサキに動かされた腰かけに座りながら言った。
「なにそれ。頼んないなあ」
「あ、はは」
二人の距離、約2メートル。うんうん、なんかこれ以上近づきたくない気がする。
「ところでさ、あの珠季ってなにものなの?」
「んあ? うちらの劇団の役者だよ」ミサキは何を聞いてるんだこいつという顔で言った。
「いや、それはわかってるんだけれど、どんなやつなのかなって思って」
「んー、中一のときからずっと星組だな。中学のときは生徒会長やって、高校入ってからもずっと星組の級長やってるし、生徒会も手伝ってるし。昨日まではフランスからの交換留学生のお世話やってて劇団に顔出せなかったんだ」
う。
な、なんかやっぱりすごそうな奴だな。
「先に言っとくけど口説こうなんて考えない方がいいよ。あいつ合気道の達人だし」
はい。
それはもう既に拝見させていただきました。
「彼氏とかはいないの?」
「ぜんっぜん。まるっきり男っ気なし。フルメタル・ヴァージンの二つ名持ってっし」ミサキは手をひらひらさせながら言った。
アイアンじゃなくてフルメタルですか、
なんとなく雰囲気でわかります。
「だけど、どうしてそんなやつがうちの劇団になんか入ってるんだ?」
「ああ、あたしが引っ張ったんだよ、付き合い長いからさ」ミサキがこともなげに言った。
「だけどよくOKしたよな。忙しいんだろ、あいつ?」
「あー、だけどあいつバカだから引っ張り込むのなんか簡単だよ」
はあ?
言ってることがわからない。珠季って星組の級長だよな?
ミサキって犬組だろ? 学食倍額ボーダーだろ?
「そういうおまえはなんでうちの劇団に入ったんだ?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」ミサキはそう言ってにっかり笑った。「学校帰りにイカロスでお茶してたらマスターがあたしにベタぼれしちゃってさ。あたしって、千年に一度、いや、一万年に一度の天才なんだって。世界があたしを待っている、なんて言われちゃあ、断るわけにもいかねえじゃん?」
……こいつ、気が遠くなるぐらいおだてに弱いんだな、たぶん。
「でまあ、バスケと掛け持ちでいいならって条件でOKしたわけ。そいで他に誰か使えそうな子知らないかって言うから、面通しのつもりで珠季誘ってイカロスでお茶したんだ。そしたらやっぱマスターが気に入ったんで、あたしが引っ張り込んだわけ」
「引っ張り込んだって、いったいどうやって?」
「別にたいしたことじゃないよ、一緒に映画観に行って……、あ、来た来た」
ミサキが言葉の途中でそう言って顔を上げたので振り向くと、珠季が凛とした姿勢ですたすたとこちらに向かって歩いてきていた。
「遅~い珠季ぃ。人呼び出しといて何やってんのさあ」
「何言ってるの、まだ一分前よ」珠季は特に歩みを速めるでもなく、平然と歩み寄りながら言った。
「五分前行動って習わなかった? てか、あたしケンボーと二人っきりだったんだよ。こんな人気のないところで襲い掛かってきたらどうしてくれるつもりだったのさ?」
「救急車呼んであげるわよ。電車でチカンの手握りつぶして複雑骨折させたの誰だったかしら?」
「あっ、あれはつい、むかっときちゃって……」ミサキは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
や、やったんだな、ほんとうに。
「だけどそんなこと言い出したら珠季が一番危ないじゃん。だって」
「私のことはいいのよ」珠季はミサキの言葉をしれっと遮った。「それより他のメンバーはどうしたの?」
「あー、も一人は昨日の晩から行方不明。リツコ先生とマスターはなんか用事で今日明日と来られないんだってさ」
「仕方ないわねえ。まあいいわ、ついてらっしゃい」そう言って珠季は、庭の奥の方に向けてすたすたと歩き出した。
「あ、ねえちょっと待って。どこ行くの?」ミサキが大きなスポーツバッグを持って立ち上がり、小走りに珠季を追った。
もちろん僕は、その後に続いた。
「なにミサキ? どうしてそんなに離れて歩くの?」珠季が不審そうな声で聞いた。
確かに、ミサキは珠季の横並びなんだけれど、ベンチ一つ分ぐらい距離を空けていた。
「あ、いや~、シャワー浴びる時間なくってさ。なんか悪いじゃん、汗臭いのって」
「別にいいわよいまさら。気になるなら私のコロン貸してあげようか?」
「いや、柄じゃないっつうか、いい匂いさせて家帰ったらひやかされそうだし」
「そう? ま、好きになさい。私は気にしないから」
「そんじゃお言葉に甘えて」と言いながらミサキが珠季に近寄った。
こいつらけっこう仲いいんだ、会話を聞きながら僕は思った。
それにしても、ミサキのことをがさつ一辺倒みたいに思っていたけど、友達に対しても汗のにおいを気にするとか、意外と繊細なところがあるんだ?
まさか僕に対してもそれで?
いやいや、それはないだろう。たぶん。絶対。
ちなみに後ろから二人を眺めると、やはり珠季の方が一回り大きい。ミサキも160㎝あるのだけれど、それでも珠季の目の辺りぐらいまでしかない。肩幅は圧倒的に珠季の方が広い、モデル体型だ。
「練習場所とか部室とかないんでしょう? 聞いたと思うけれど、お昼休みに山田まどかからクレームつけられちゃったのよ」珠季が近寄ってきたミサキに顔を向けながら言った。
「山田って、あのヅカ女っしょ? いいじゃんあんなやつ好きに言わせておけば」
「そういうわけにもいかないのよ、私も立場上」珠季はそう言って大きなためいきをついた。「そもそも学校の部活じゃないんだから学内施設を使うのはまずいでしょ。仕方ないから私の屋敷の使っていない離れを提供することにするわ。あそこなら私有地だからごちゃごちゃ言われることもないでしょうし」
「へえ。そんなの余ってるんだ。だけどいいの?」
「長期滞在のお客様用に建てたんだけれどね、だいたいのお客様は別館の方に泊まるし、そもそもお客様が少ない家だから使い道がないのよ。家って使わないと早く痛んじゃうからこっちも助かるわ」
そんな話をしながら、珠季とミサキは庭の奥の方へとずんずん進んでいく。
「あっ、あの、話の流れとして、き、君の家に行くんだよね?」僕は二人の後ろから声をかけた。
「そうよ。聞いてたらわかるでしょ?」珠季が顔だけを僕に振り向けて言った。
「だったら方向が逆なんじゃ……。校門はあっちだし」
「あそっか。ケンボーって知らねーんだ珠季のこと」ミサキが思い出したように言って僕を振り返った。「あのさ、ここもう珠季んちのなかだから」
はあ?
なに言ってるんだ、学校だろここ?
「正確に言うとさ、珠季んちの敷地内にこの学校建ってんだよ。つーか、珠季のお母さんってここの理事長だし」
ぶっ。
そっ、そっ、そういうことはもっと早く言えっ。
てか、家の敷地の中に学校が建ってるってなんだ? この学校広いんだぞ、400mトラックとか野球場まであるんだぞ。
僕が口を開こうとすると、道の向こうに黒服のメイドさんが二人、左右に分かれて立っているのが目に入ってきた。
「おかえりなさいませお嬢さま」メイドさんは珠季の顔を見ると深々とお辞儀をした。
ううむ。本物のメイドさんなんて始めて見た。
てか、本当に『メイド』って職業があるんだ?
二人とも二十代半ばってところだろうか、大人の気品がぷんぷんと。
「ただいま、真珠、黒曜」
「こんちゃーす。おひさしぶり」ミサキが能天気な声を出す。
「袖原さまいらっしゃいませ。お久しぶりでございます。あの、そちらの方は?」真珠と呼ばれたメイドさんがミサキに声をかけ、それから僕の顔を見て珠季に聞いた。
「ああ、この人私の知り合いなの。これから度々来ることになると思うから、B区画までの通行を許可してあげて。いいわね?」
「かしこまりましたお嬢さま」二人のメイドさんは深々と頭を下げた。
僕たちは二人のメイドさんに見送られながら、ずんずんと庭(いや、これはもう森だよな)の奥に入っていった。
「あ、あのさ、なんで森の中にメイドさんが?」僕は珠季に聞いた。
「ん? あそこが学校と屋敷の境界線だから、不審者が入らないように立ってもらってるの。強行突破はしない方がいいわよ、蜂の巣にされちゃうから」
武装してるのかよっ。
て言うか、それだったら普通に壁と門ぐらい建てろよ。
「ここよ、ちょっと手狭だけれど」珠季はそう言いながら小道にそれた。
そしていきなり視界が開けた。
う。
な、なんですかこれ?
やたら立派な日本庭園が目の前に広がっていた。池があって橋が架かっていて灯篭があって、鹿威しまである。まあそれはいい。お金持ちの家なんだから日本庭園ぐらいあってもいいだろう。だけどその向こう、珠季が『離れ』と呼ぶ建物……
あの。
こ、これ、お城なんじゃないですか?
望楼型の天守閣? 天守と小天守がしっかりある連結式だし。
「うわあ、可愛いじゃん。でもなんでお城なの?」ミサキが嬉しそうな顔をしながら珠季に聞いた。
ミサキ。可愛いかこれ?
「設計士に海外からのお客さまが喜びそうな外観でって言ったらこんなになっちゃったのよ。まあ、中は普通の洋館だから安心して」池の橋を渡りながら珠季がこともなげに言った。
ううむ。
一流の財力と二流の才能が結びつくとこんなものができるのか。
「裏側に芝生の園庭とテニスコートがあるから、どたばたしたかったらそっちでやってね。こっちはモノが多いから」珠季がミサキに言った。
「人を子どもみたいに言わないでよ」
「……あなた。そう言いながらこれまで私の家のものをどれだけ破壊してきたか覚えてるの?」珠季が横目でギロリとミサキを睨んだ。「ガラスや家具調度類は言うに及ばず、壁に穴は開けるわ、彫刻の首はもげるわ、プールに絵の具流し入れるわ、古備前のお皿でままごと遊びしてこなごなにするわ、池の錦鯉で釣りはするわ、ログハウス倒壊させるわ、芝生掘り返して地上画作るわ……」
「しつっこいなあ。子どもの頃の話だし、ちゃんと謝ったじゃんか」
おい。
ミサキおまえ、どんな子どもだったんだ?
それにログハウス倒壊って?
突っ込もうかどうか迷いながら橋を渡りきると、建物の横手から紫色のメイド服を来た女の子がすうっと姿を現した。
「お帰りなさいませお嬢さま。お待ちしておりました」
すごくきれいな、そして若いメイドさんだった。髪がショートで、冷ややかで強い目をしている。歳は僕たちと変わらないんじゃないだろうか? 背も茜と同じくらい、かなり小さめだ。
「ただいま珊瑚。連絡は受けているわね?」
「はい。私がこちらの離れのお世話をさせていただくよう仰せつかりました」
「そう。よろしくね。ミサキ、ケンボー、この子がこの離れを担当してくれるから仲良くしてあげて」
「珊瑚と申します。よろしくお願い申し上げます」珊瑚さんはそう言って深々と頭を下げた。
「お嬢さま、確認させていただきます。袖原ミサキさまは『梅1』のままで宜しいでしょうか? それとケンボーさまはいかがいたしましょう?」
「そうね。『草』でいいわよ」
「かしこまりました。どうぞお入りくださいませ」珊瑚さんはそう言って両開きになっている大きな扉をギギギと開けてくれた。
「あ、あの、珠季……さん?」僕は建物の中に入りながらおずおずと聞いた。
「珠季でいいわよ。なにかしら?」
「あの……いまの、梅とか草ってなに?」
「ああ、お客様の扱いランクのことよ」珠季はこともなげに言った。「一番上の『華』は絶対服従。家人に敵対しない限りセクハラでもなんでもありね。『梅』は、まあ普通の来客レベルかしら。使用人として普通に接すると考えてもらっていいわ」
「なんであたし『1』とかついてんの?」ミサキが聞いた。
「警戒レベル1。家屋及び敷地内の器物損壊の恐れありってこと」
「僕の『草』っていうのは?」
「とりあえず敷地内に入ることを許可する、ぐらいかしら? タメ口可だし、セクハラとかされたら生体機能を奪わない範囲での反撃行動も許されているわ」珠季はあたりまえのような顔をして言った。
「なっ、なんで僕だけ草なんだよっ」
「だってあなたのことなんか何も知らないじゃない? うちの大事な使用人に色目なんか使われたら可哀そうだもの」
「お心遣いありがとうございます、珠季お嬢さま」そう言って珊瑚さんは珠季に頭をさげ、それから僕の顔をギロリと睨んだ。「つーわけだ。あたいがあんまり可愛いからって変な気起こすんじゃねーぞ。わかったかこのタコ」
ぶっ。
ななな、なんですかその豹変した物言いは?
「つったくもう、女みてえな顔しやがって。へらへら笑いなが鼻の下伸ばしてんじゃねえぞ。ちっとでもつまんねえことしてみやがれ、速攻でツブすからな」
あ、あの、
それってタメ口というよりは見下した物言いになっていませんか?
「わお、中はきれいじゃん」ミサキが嬉しそうな声を上げた。
確かに、珠季が言ったように中は普通の洋館になっていた。というか豪華な洋館だ。天井から高そうなシャンデリアがこれみよがしにぶらさがっている。
「一応、人が住めるようになってるのよ。一階がリビングとかキッチンとかプレイルームとかね。お風呂は小天守のところ。露天もあるわよ。二階が宿泊用のゲストルームで、8室あるわ。三階が和室になってるからぐだぐだするんだったらそこを使って」
あの、珠季さん?
あなた確かここのこと「余ってる離れ」とかおっしゃってましたね?
あんたんとこって、こんな立派なもの建てるだけ建てといてほったらかしにしてるんですか?
「キッチンとか冷蔵庫のもの、勝手に食べていいから。珊瑚?」
「はい。一通りのものは揃えておきました」珊瑚は(こんなやつに「さん」付けなんかしてられるか)静かな声で言った。
「まあ手狭なところだけど、自分の家だと思って気軽に使ってちょうだい」
あのさ珠季、
こういうところ「手狭」だなんて言ってるとイヤミな女だと思われるぞ。