第三幕 空飛ぶベンチ
「なんだかなあ、まったく」
独り言を言いながら僕は公園のベンチにどさっと腰をおろした。
土曜日の午後。新学期が始まって最初の休日だ。
茜はクラスで新しくできた友達と遊びに行くとか言って朝から勝手に出て行ってしまった。僕はと言うと……誰からも誘っていただけてない。みなさん、もう少し転校生には優しくしましょうね。
劇団の練習は来週からぼちぼち始めるということで、まだ仲間を誰も紹介してもらっていないから、こっちから誘うにも誘う相手がいない。梶原? 勘弁してください。西田さん? あの人彼氏いるそうですよ、アメフトのキャプテンだとか何とか。
そういうわけですることもなく、かと言って部屋にこもっていても気が滅入るだけなので、一人でバスに乗ってこの県営北山公園にやってきたわけだ。
とにかくやたらでっかい公園だ。ボートに乗れる湖もある。体育館に野球場、陸上競技場、テニスコートや屋外バスケコート、バーベキュー場に屋外劇場まである。裏山の展望台に登れば街を一望することができるらしい。
市民の憩いのメッカということで来てみたのだけれど、さすがに僕みたく一人でぶらぶらしている人は誰もいない。たいていはカップルか団体さん、あるいは家族づれ。そりゃそうだろうなあ、ふつうだと思うこれ。
やれやれ。
こんなお天気のいい日に何をやってるんだか僕は。
はは。ははは。
共学に転校したら彼女ぐらいすぐにできると思っていたけれど、それがとんでもない妄想だということが早くもわかってきた。廊下でドンも、木に登って降りられなくなっている美少女も、曜日によって髪型を変えてくる風変りなクラスメートもいない。
共学っていうと固有結界の地面に無数の剣が突き刺さっているが如く恋愛フラグが立ちまくっているイメージがあったのだけれど、それってやっぱり2Dの世界限定の話なんだ。この一週間、何の予兆もありゃしない。
ふう。アニメから足を洗えないオタの気持ちがわかるなあ。
ちなみに茜は、白ブラ事件以来毎日僕の部屋にやってきて一緒に飯を食ったりテレビを見たりしている。だけど攻略不可なので逆に生殺しだ。見栄はった約束なんかしなけりゃ良かった。あいつ、正直可愛いんだし。
だけど、色目使って拒否られた日にゃあ、かなり悲惨ですよね? これからずっとお隣さんとして暮らしていかなきゃいけないわけだし。
あーあ。こりゃまだしばらくゲームやネットが恋人なのかなあ。
ベンチに座ってそんなことを考えながら辺りを見渡すと、はす向かいの芝生にジョギングウエアの女の子が大の字になり、脚を立ててひっくり返っているのが見えた。
ぶっ。
あああ、あの、
か、顔は見えないけれどその、
パンツ丸見えなんですけれど、ジョグパンの裾から。
なっ、なんちゅう無防備な女の子だ。
僕は慌てて視線をそらした。
と、
その視線の先、僕の左隣のベンチに座っている太っちょの男の様子が目に入ってきた。
年のころは僕よりも少し上、大学生ぐらいだろうか。にやにや笑いながら手にした携帯を、ひっくり返った女の子に向けている。
と、盗撮?
良くないんじゃありませんかそういうの?
犯罪なんだし、ちゅ、注意すべきなのかなやっぱり?
僕はあたりを見渡した。
人はけっこういる。ジョギングをしているスポーツマンらしい人もたくさんいるし、家族連れやカップルもいる。盗撮してるやつは弱っちそうだし、注意して逆切れされても助けを呼べば何とかなりそうだ。
ふう。
僕は大きく深呼吸をしてから立ち上がった。
そして、太っちょに向かってゆっくりと近づいていき、ベンチの背後に周って、そいつが携帯で女の子を見ていることを確認した。
やっぱり。画面に女の子が大写しになっている。
僕は相手を刺激しないよう、ベンチの後ろから囁くように声をかけた。
「あ、あのえと、ちょっといいですか?」
太っちょが、びくっとした顔で僕を振り返った。
けっこう気弱そうな奴だ。だけどこういうのが実は危なかったりするんだから、刺激しないように言葉を選ばなきゃな。
「あのそれ……写真、あまり良くないかなって」
「はあ?」太っちょは眉間に皺を寄せながら、ねばっとした声を出した。
「いや、あの、その写真。それ、あまり良くないと思うんですけど……その」
「あ、ああ、そういうことね。なんだ」太っちょはなぜか安心したように安堵のためいきをついた。
え?
「そうかなあ、僕的にはよく撮れていると思うんだけど」太っちょはそう言いながら携帯をちまちまと操作し、画面を切り替えて別の写真を僕に見せてきた。「ほらほら見て。これなんかどう? ばっちりでしょ?」
はあ?
「この間買い換えたんだよねこれ。ズーム倍率40倍超えてるんだよ。おたく何使ってるの? やっぱ携帯派かな? デジカメってうまくやらないと怪しまれるものねえ」
あ、あの?
僕、もしかしてご同類だとか思われました?
「ねねね、これ見てこれ。けっこうきてると思わない? 思うよね?」そう言いながら太っちょは僕の顔に携帯をぐぐっと近づけてきた。
ううう、うわ。
チラ見えパンツのどアップじゃないですかこれ。
「パンチラはけっこう多いんだけれどさ、ジョグパンチラはレアだよね。おたくもこっちの方面? それとも炉なのかなやっぱりさ」
「あ、いやあの、僕はそっちじゃなくて」
「奥様方面なんだ? それだったらあっちの広場の方がターゲット多いよ、家族連れとかさ。あと明日のフリマ。あれけっこうおいしんだよねえ、しゃがみがさ」
い、いかん。
完全にお友だちだと思われている。
「い、いやあの。ぼ、僕はそういうの撮ったりしなくて……」
「あ、街撮りじゃないんだ? リモート? ぼくもちょっと前までそっちだったんだけど、やっぱなんて言うのかな、被写体との真剣勝負? そっちに惹かれていま街撮り専門なわけ」
いえ、そういう話をされても僕は。
てかリモートってなんだリモートって?
「頑張ればさ、それなりにいいの撮れるもんだよ。ほら、これなんかずばっときてるでしょ?」太っちょはそう言いながら画面を切り替え、自慢げに新しい写真を僕に突き出してきた。「こういうのさ、なかなか撮れないんだよ。やっぱユルい被写体がいないとさ。その点、スポーツやってる子はいいよね、ユルい女が多くてさ」
「……ユルい女で悪かったわね」
正面から声がした。
え?
なんですかと思って顔を上げると、
うわっ、
さっきまでひっくり返っていた女の子が目の前に立っていた。
髪は明るい茶色のクセっ毛で、夏でもないのにランニングとショートパンツといういでたちだ。全身に汗を掻いていて髪の毛が幾筋も顔に張り付いている。その顔は……、か、かなり可愛い。スポーツ少女好きにはど真ん中だろう。意志の強そうな瞳、鼻は低いけれど鼻筋がきれいに通り、口元は真一文字だ。背は中背、160㎝ぐらいだろうか、四肢が健康的に引き締まっていて足首が細い。
「あんたたち、その携帯ちょっと見して」
は?
あんた……たち?
ぼ、僕もですかあ?
「な、なんだよ君はっ。僕らの話に関係ないだろうっ?」
おいっ。
おまえまで『僕ら』とか言うなっ。
「いいから貸せっ」
女の子は素早く男から携帯をひったくった。
そして、画面に映されている写真を見てぼっと顔が赤くなった。
「お、おまえらあ……」
め、目が三角に。
そして背景が噴火する活火山に。
おいっ、何かあったらすぐ放映自粛になるから自然災害は背負うなっ。
「ち、違うっ。僕はそのっ、ちゅ、注意しようとしてっ」僕は慌てて言った。
「きみそんなあっ、裏切らないでよおっ」太っちょが僕にすがるような声をかけてきた。
おいっ、
裏切るってなんだ裏切るって?
「いいからおまえら、一緒に警察来いっ」
け、警察う?
しかもなんで僕が一緒に?
「い、いやだああっ」太っちょが立ち上がり、女の子からぱっと携帯を取り戻して一目散に駈け出した。
うわ。
こいつ太っちょのくせに俊敏なんだ?
「逃がすかあああっ」女の子が、太っちょが座っていたベンチに手をかけた。「うりゃああああっ!」
ベンチがうなりをあげて宙を飛び、太っちょの背中にどがあんっと命中した。太っちょはその勢いでふっ飛ばされ、倒れたままピクリとも動かなくなった。
う、うそだろ?
し、死んだんじゃないだろうなあいつ?
てか、こんなパワーあるんだったら普通に走ってつかまえた方が良かったんじゃ?
周りにいた人たちが何事かと思ってわらわらと集まってきた。
だけど女の子は衆目を一切気にせず、手をパンパンとはたいて僕をじろりと睨みながら言った。
「あんた、まさか友だち見捨てて逃げたりしないわよね?」
「だっ、だから僕はあんなやつ知らないって言ってるだろっ」
女の子は僕に、ずいっと歩み寄った。
そして自分の腰に手をあてると、
僕の顔を下から覗き込むようにして言った。
「あんたって……、サイテーっ!」
▽ ▽ ▽
「まあ、こちらの方は、ほんとうに関係ないみたいですからな」お巡りさんは、かけていた眼鏡を外してハンカチで拭いながら言った。
「か、関係ないって、お巡りさん、こいつ一緒になってあたしのパンツの写真見てたんですよおっ」
ここは公園の中にある警官派出所。
結局、太っちょと一緒に連れてこられた僕は事情聴取をされる羽目になった。でまあ、意識を取り戻した太っちょが僕の名前すら知らないということがわかって、ようやく容疑が晴れたわけだ。
「見られたのあたしだよっ! 被害者のあたしが言ってるんだよっ、いいから逮捕して死刑にしてよっ!」女の子は机をばあんと叩きながら声を張り上げた。
「まあそうは言ってもですなあ」年かさのお巡りさんは、自分の眼鏡にはあっと息を吹きかけながら言った。「犯人との面識はない、証拠品の携帯電話は犯人のもの、こちらの方の携帯にはなんにも写っていない。これでは逮捕なんぞするわけにいかんのですよ」
「そんなのおかしいじゃんっ! こいつの家、家宅捜索してよっ、絶対へんなもんとか出てくるに決まってるんだからっ!」
おいおい。
「いや、そう申されてもですなあ」
「じゃあなに? あたしは見られ損なわけ? そんなのおかしいじゃんかっ。盗撮魔の味方するんだったら警察呼んでよ警察っ!」
女の子は手を組み脚を組んでパイプ椅子にふんぞり返った。
おい、
お巡りさんに向かって警察呼んでよなんて言うか、ふつう?
「まあまあ、そう熱くならずに。ええと、有森小太郎さん、でしたっけ? すみませんが身分証を何かお持ちですかな? 一応、仕事なもので」お巡りさんは僕に向き直って聞いた。
「あ、えと、すみません持っていません。学生証は制服のポケットに入れっぱなしだし、徒歩通学だから定期もないし」
「学生さんですな? 失礼ですがどちらの?」
「はい。並木学園高校の二年生です」
「ほらうそついた。やっぱめちゃくちゃあやしいじゃんかこいつっ!」僕の言葉が終わると同時に女の子がわめいた。
「うそ、と申しますと?」お巡りさんが聞いた。
「あたし並高の二年生だもん。中学から通ってるけれどこんなやつ知らないよ」
げげっ。
こいつ、ご学友なんだ?
「て、転校してきたところなんだよっ、この春にっ」
「……うそつき」女の子はジト目になって僕の顔を見た。
「ほんとだよっ。ていうか、おまえいいかげんにしろよな、さっきから人の話全然聞いてないじゃないか」
女の子はガタっと椅子から立ち上がって僕に近づいてきた。
「盗撮魔のくせにおまえ言うなっ! あたしにゃ袖原ミサキって立派な名前があるんだぞっ!」
「知らないよ名前なんかっ。それにおまえだってさっきから僕のこと、こいつ呼ばわりしてるじゃないか」
「あったしまえじゃん。盗撮魔に名前なんて十年早いっての」ミサキと名乗った女の子は、全く悪びれたふうも見せないで言った。
「だから僕はそんなんじゃないって言ってるだろっ」
「だってあたしのパンツ見たじゃんかっ!」
「だから見せられたんだってばっ。それに第一、そんなかっこで大股開いてのびてたおまえが悪いんじゃないか」
「なによっ、逆切れするつもりっ? このヘンタイ盗撮魔っ!」
いや、逆切れじゃないし。
しかしなんなんだこのミサキってやつ。
僕は親切で盗撮魔に注意しに行ってやっただけなのに。
「あのさあ、頼むから人の話聞いてくれよ。それと少しは女の子らしくしろよ。おかあさんが見たら泣くぞ」
「ほっといてよっ、いまどき女の子らしくなんて言うのセクハラだよ、そういうの言っちゃいけないんだよ? それに、あたしおかあさんいないもんっ」
え?
お、おかあさんがいない?
僕は慌ててミサキの顔を見た。
ミサキは腰に手を当てながら真っ直ぐに僕の目を睨みつけていた。
「ご、ごめん。知らなかったからつい。あの、り、離婚とかしちゃったの?」
「違うよ。あたしが小4のときに轢き逃げ事故で死んじゃったんだ。……犯人、まだ捕まってないし」
「……そ、そうなんだ。ごめん、悪いこと言っちゃったな」
ほんとうに悪いことを言った。
まずかったないまのは。
だけどミサキは、そっちの方は全然気にしていないみたいだった。
「別にいいよ、知らないで言ったんだからさ。それよかパンツだよ問題は」そう言うと、ミサキは片手をぽんっと僕の肩の上に置いた。「ねえ、あんたいつからこんなことやってるの? 今日この公園に来たのはそのため? 彼女とかいないの? 被害に遭った女の子の気持ちって考えたことある? ご両親がこんなこと知ったら悲しむよきっと」
「だからあっ、僕はそんなんじゃないって言ってるだろっ。てかなんでおまえが尋問とか説教とかするんだっ!」
僕たちがそんなことをぎゃあぎゃあわめいていると、背後でガラリと派出所の扉が開く音がした。
「すみませえん。湖のところでカーディガン置き忘れちゃったんですけれどこちらに届いていませんか?」
僕は声のした方を振り向いた。
淡い黄色のブラウスにタイトスカート姿のリツコ先生が戸口のところに立っていた。
「り、リツコ先生?」僕とミサキが同時に声を上げた。
「あら?」リツコ先生はきょとんとした顔をして言った。「ケンボーとミサキじゃない? なにしてるのこんなところで?」
「せ、先生、知ってるんですかこいつのこと?」
「あーっ、いまこいつって言ったあっ。ねえ、あんた何さま? 女の子に対してそんな物言いしていいと思ってるの?」
「お、おまえだってさっきから僕のことずっとこいつ呼ばわりしてるじゃないか」
「あらあら。いつの間にそんな仲良くなっちゃったの? ケンボーって手が早いのねえ。私のことは誘ってもくれないくせに」リツコ先生はそう言いながら茶目っ気たっぷりにウインクをした。
なっ、なに言ってんですか派出所の中で。
てかそれ、
女教師が生徒に向かって気軽に言っていい台詞じゃないですよね?
「それで今日はなに? デート?」
「ちっ、違いますよ。誰がこんなやつと」
「あーっ、今度はこんなやつって言った、二回目言ったっ!」
いちいちうるさいな。
「だけどどうして知り合ったの? わたしまだ紹介してなかったわよね?」
はあ?
あの、紹介ってなんですか?
こんなやつ紹介なんかして欲しくないんですけど?
「リツコさん、こいつ、あたしのパンツ盗撮したんだよっ」
「やってませんよそんなことっ」
「やったじゃんっ、見たじゃんっ、いいかげん白状っちゃいなよっ」
「別にパンツぐらいいいんじゃない?」リツコ先生が平然とした顔で言った。
あ、あの、盗撮って犯罪なんでしょ?
そいでもってあなた一応、聖職者なんでしょ?
「だからやってないってばっ。リツコ先生信じてくださいっ」
「だからどっちでもいいわよそんなこと。でもねケンボー、一言だけ言っておくわ」リツコ先生は、そう言いながら僕に向き直った。
ど、どっちでもいいのか?
どっちでもいい問題なのか盗撮って?
「ねえ、これは教師として上から物を言うんじゃない、人としての忠告よ」リツコ先生は僕の両肩に手を乗せ、真面目な顔をして僕の眼を覗き込みながら言った。
う。
も、もしかしてまともなことを言うつもりか?
「男ならね、パンツじゃなくて、パンツの中身に情熱を注げる人間になりなさい」
ああ。
この人にちょっとでも期待した僕がバカだった。
「あの、失礼ですがこちらの二人とお知り合いで?」それまで話を黙って聞いていたお巡りさんが割って入ってきた。
「あ、はい。わたし並木学園高校で非常勤講師をしております、高垣リツコと申します」そう言いながらリツコ先生は、ハンドバッグから身分証を取り出してお巡りさんに手渡した。
お巡りさんは眼鏡をかけ、それをじろじろ見ながら言った。
「それで、こちらのお二人はおたくの生徒さんということで間違いありませんな?」
「ええ」
「だってリツコさん、あたしこんなやつ知らないよ」ミサキがふてくされたように言った。
「ああ、それはそうなんじゃない? まだ紹介していないもの。ついでだから紹介しておくわね、ミサキ」リツコ先生が僕の肩に手を回しながら言った。
あ、あの、
胸が肩に押し付けられるんですけど?
「この子、有森小太郎くん。ケンボーでいいわ。ミサキと同い年よ。来週からうちの劇団で書き屋さんやってくれるの。あなた役者なんだから仲良くしてあげてね」
「えええええーっ!」僕とミサキが同時に声をあげた。
こここ、こいつが?
こいつが『イカロスの聖櫃』の役者?
僕は慌ててミサキの顔に視線を走らせた。
うおいっ。
そんな親の敵でも見るような目で僕の顔を睨むのはやめろっ。
てか、僕はほんとに何にもしてないだろうがっ!