第二幕 劇団へようこそ!
「しっかし、今時あんなもんに簡単に引っかかるあほがおるとは思わんかったわ」
茜は鞄を制服の肩から担ぐようにしてニカニカ笑いながら言った。
僕は決して背が高い方ではないが、茜は僕の顎までぐらいしかない。確か155㎝とか言ってたな。
「……うるさい」僕はポケットに手を突っ込みながらげんなりして言った。「おまえさ、ただ僕をひっかけるためだけに、わざわざ真夜中に部屋に忍び込んできたわけ? パンツ持参で」
「あのパンツ効いたやろ? 我ながらええアイディアやと思たわ」茜は嬉しそうににっかりと笑った。
思い起こしてみれば、こいつは昔っから滅茶苦茶なやつだった。
小学生の頃、お互いの家族と一緒に何度か海へ泊まりに行ったことがある。その時も、僕の海パンにナマコを入れたり僕に向けて打ち上げ花火を発射したり三mもある客船用桟橋から海に突き落としてくれたりと、枠外的ないたずらばかりしていた。
ここ二、三年は疎遠になっており、ひさしぶりに逢って可愛くなったものだと感心していたら……これだ。中身はちっとも変わっていない。
「せやけどな、だいたい、脱ぎたてのパンツと洗濯したパンツの区別もつかへんなんて、ケンボーの方がどうかしてんねんで」
「そんな区別、僕につくわけないだろ? どう違うんだよ?」
「それをうちの口から言わせたいんか?」
「……いい。目眩がする」僕はあきらめて言った。
もういい。ひっかかった僕が悪いんだ。
ちなみにケンボーというのは僕の本名ではない。
僕には有森小太郎という、れっきとした名前がある。ただ子供の頃あまりにも物忘れが多く、茜から「コタローって、もしかして健忘症の人?」と言われ、それがそのまま呼び名として定着してしまった。ゆえに両親からもコタローとは呼んでもらえずケンボーと呼ばれている。あんたら、何のために息子に名前つけたんですか?
「おはよ。朝から二人とも楽しそうね」
声に振り返ると、リツコ先生がにこにこ笑いながら立っていた。
この人はこの春から僕たちの高校に勤めている英語科の非常勤講師だ。さらさらのロングヘアーで、涼しい目元をした綺麗な人だ。ぴったりめのミニスカスーツを着ていて、ブラウスの間からはっきりした谷間が覗いている。そして思いっきり美脚だ。
「聞いて聞いて、リツコはん。今朝、めっちゃおもろかってん」
「なになに? どうしたの?」
茜とリツコ先生が楽しそうに話を始めた。
ああもう、勝手にしてください。僕はひときわ大きなためいきをついた。
ちなみに、わかったふうなことを言っているけれど、実は僕だっていま向かっている並木学園は転校してきたばかりでまだ登校三日目だ。学校の事情はほとんどわかっていない。実際、やたら敷地のでっかい中高一貫の超名門校というぐらいのことしか知らないし。
親父がこの春に北海道に転勤になって、おふくろと妹がそれについていき、寒いところを嫌がった僕一人がこっちに取り残された格好になった。もともと社宅に住んでいたので僕は住むところを失い、なんとかいまのアパートを探し当て、ネカフェ難民になることだけは免れることができた。
そのついでに僕は高校を転校することにした。前の高校はあまりにもガラが悪くて、教師も生徒もつまらないやつが多くて、おまけに男子校だった。彼女ができる可能性なんてゼロ以下だ。どうせ一人暮しをするなら彼女が欲しい。いや、変な意味じゃなく、あでもそういう意味で。
たまたま千葉に親戚が住んでいたから身元引受人になってもらい、両親の転勤による県外転出という体裁を整えて転入試験のあるところを受けまくった。そうしたら、なぜか茜と同じ並木学園に合格してしまったのだ。
茜はもともと大阪で同じぐらいの偏差値の有名私立に通っていたから、まともに入学試験を受けて受かったらしいんだけど、僕が受かるとは誰も、受けた本人である僕でさえも思っていなかった。
だって前いた高校と偏差値が14も違うんですよ?
転入試験の答案用紙なんか半分も埋められなかったんですよ?
最後の方の問題なんか、質問の意味すらわかんなかったんですよ?
入学したのはいいけれどついていけますか僕?
……まあいいか。
僕はもう一度大きなためいきをついた。
後ろから、リツコ先生と茜が楽しそうにぺちゃくちゃ話している声が聞こえてきた。
だけど、こいつらなんで仲良くなったんだろう? 茜もこの春から並木に通ってるんだから、まだ学校に顔出したのって三日だけだよな確か。
……それもまあいいか。
誰がいつ誰と仲良くなろうが勝手だものな。詮索したらなんか悪いし。
そんなことより自分のことを考えよう。
この学校で彼女できるかな?
できて欲しいな、これまで一回もできたことないし。
だけど一人暮らしで彼女作って、という甘い妄想はすでに吹き飛んでいる。だって隣の部屋に茜がいるんですよ? あのアパート思いっきり壁薄いし、これじゃどっちがお目付け役かわからないじゃないですか?
はーあ。
しかしまあ、通学路だけで何回ため息をつくんだ僕は。
▽ ▽ ▽
「二年W組有森小太郎くん、有森小太郎くん、至急、理事長室まで来なさい」
四時間目の授業が終わったと同時に、女性の声で目が点になるようなアナウンスが校舎全体に流れた。
はあ? り、理事長室ですか?
なんでまた僕が?
「おい有森、呼ばれてるぜ?」隣の席の梶原雄介がきょとんとした顔で声をかけてきた。
こいつはたまたま隣の席になっただけなんだけれど、おせっかいなのか口数が多いだけなのか、やたら僕に話しかけてくる。校則がゆるいことを盾に髪の毛を金茶色に染めて制服をダラダラに着こなしていて、見るからにバカっぽいやつなんだけれど、話してみると実際にバカだ。おまけに情報がいいかげんだから、恋シュミゲーの友人役にすらなれそうにない。。
だけどなんだかなあ。
普通、転校生の隣の席っていうのは美少女でしょ? でもって、学校案内してあげるわとか何とか言ってお近づきイベントになるのがお約束でしょ? はあ。それが何だってまたこんなやつなんだ?
「なんかやったのかよ、おまえ?」
「知らないよ。全然なんにもしてないし。てか、理事長ってどんな人?」
「ん? あー、なんつーか変わった人。会えばわかるよ」
梶原、それ全然説明になってないぞ。
「いいよもう。で、理事長室ってどこにあるんだ?」
「あ、そういや知らねえなあ俺。どこにあんだろ? うーん」
「おいっ、おまえ一応この学校に中学から通ってるんだろうが」
「この校舎を挟んで体育館の反対側にでっかい講堂があるでしょ、始業式やったとこ。あそこの二階よ」はす向かいの席に座っている西田久美子さんが振り向いて声をかけてきてくれた。
西田さんは長い髪をポニーテールにしていて、背も高く、すごくかっこいい。さばさばした性格らしくて誰とでも気軽に話をする。転校初日、見慣れない顔の僕に最初に声をかけてくれたのも彼女だった。
「正面から入ったら右手に階段があるから、そこを上っていけばすぐにわかるわ」
あ。わたしが案内するわとか言ってくれないんだ。
そういう定番イベントって起こらないんですね。やっぱり。そう言えば僕、誰にも学校のなか案内とかしてもらってないなあ。
「だけど有森くん何やったの? あたし中学からこの学校通ってるけれど、理事長が個人生徒呼び出したのなんて初めて聞いたわよ?」
「え? そ、そうなの?」
「おまえ、実は財閥の御曹司だとか政治家の息子だとか?」梶原がいぶかしげな目で聞いてきた。
「そんなわけないだろ、ただのサラリーマン家庭だよ。それも北海道に飛ばされた、リストラ寸前の哀れなサラリーマンの」
「いいなあ北海道。ついてきゃ良かったのに。空気きれいそうだし、食べ物おいしそうだし、スキーやりたい放題だし。あたし行きたいなあ」
ああ、西田さんは北海道とか似合うだろうなあ。のびのびしてるし運動神経良さそうだし。
僕は絶対ムリです。
内向型だし、寒いの苦手だし、スキーもスケートもできないし。
「だったらどうして理事長がおまえ呼び出すんだよ?」梶原がしつこく聞いてきた。
「だから知らないってば。こっちが聞きたいぐらいだよ」
そのとき、いきなり男性の声でアナウンスが流れた。
「有森小太郎っ。呼ばれたらちゃっちゃと動かんかあっ! ダッシュでこいダッシュで、三分だぞ三分っ」
う。ななな、なんだこの校内放送は。てか、いまどきパシリか僕は。
「よくわかんないけれど急いだほうが良さそうね」西田さんがまるで他人事のように言った。
「う、うん。そうする」
僕はガタリと席を立った。
▽ ▽ ▽
息を切らせて階段を駆け上がり、理事長室のドアの前に立ったのがそれから五分後。
ぜはっ、ぜはっ。
な、なんて広いんだこの学校。全力で駆けて五分もかかるなんて無茶苦茶だ。
僕は息も整わないまま、おそるおそるドアをノックした。
「遅せえっ。なにとろとろやってやがんだこのタコっ。とっとと入りやがれっ」
うひゃあ。
な、なんだかわからないけれど急いで入ったほうが良さそうだ。
僕は慌ててドアを開けた。
「し、失礼します」
正面にどでかい執務机があって、そこに、ふんぞり返って机の上に足を上げている男性が座っていた。
歳は……親父と同じぐらいだろうか。髪の毛がぼさぼさで、肌の色が黒い。ジーパンに白いTシャツで、上から紺色のジャケットを羽織っていた。
「あの……あ、有森小太郎です。り、理事長先生……ですか?」僕はおそるおそる聞いた。
「んあ? あんなやつと一緒にすんな。とりあえず中入れ。そいでドア閉めろ」
「あ、はい」
僕はわけがわからないまま言われたとおりにした。
「んー」男性は僕の顔をじろじろ見て、それからぼそりと言った。「女みてえな顔してんなおまえ」
「う。す、すみません」
「ガリガリに痩せてっしよ。ちゃんと食うもの食ってんのか、おまえ?」
「あ、はい。い。一応」
「おとうさん、初対面の人にあんまりズケズケもの言っちゃダメよ」
僕は驚いて、声のした背後を振り返った。
リツコ先生と茜がそこに立っていた。
え?
ななな、なんでここに茜が?
それにリツコ先生、いま確かおとうさんって?
「ああ、悪りい悪りい。そいで有森?」
「はいっ」僕は慌てて正面に向き直った。
「おめえ、小学校のときに全国創作作文コンクールで金賞とってるな?」
「あ、はい。一応」
確かにそれはとってるけど、あれって僕は一文字も書いてないんだよな。親父が賞金欲しさに勝手に書いて勝手に応募しただけだ。しかも超メルヘンチックな作品だったし。授賞式に出て賞状をもらったときは、ほんと恥ずかしくて死にそうだった。
「一応読んだんだけどよ、まあそこそこ書けてたな。文章はめちゃくちゃだしキャラはパラノイアみてえだけど、大人じゃ絶対に出てこない発想だ。大人が書いたら紙クズにしかならねえけれど、ガキが書いたにしちゃ上出来だ」
おーい親父。ボロカス言われてるぞ。
「んで、将来の希望は小説家か脚本家、と」
う。
それも学校に提出する書類に適当に書いただけで、そんなこと真面目に考えてません。
「わかった。そいじゃやっぱてめえで手を打つか」
「はあ?」
「おめえ、今日からうちの劇団の書き屋な。びしびししごくから覚悟しとけよ」
さっぱり意味がわかりません。てか、劇団ってなに?
「あ、あの、理事長先生?」
「しつけえなあてめえも。俺はそんなんじゃねえって言ってっだろ? 俺は単なる喫茶店のマスターだよ。ま、俺のことはマスターとでも呼んでくれ」
あのえと。余計に話が見えなくなってきたんですが?
学校関係者でもない人がどうしてここに?
「おとうさん、ちゃんと説明してあげないと理解できてないんじゃない?」
後ろからリツコ先生が助け舟を出してくれた。
「そういうじゃまくせえのは苦手なんだよ。リツコ、おめえが説明してやってくれ」
「……しょうがないわねえ」
リツコ先生は大きなためいきをついて、それから僕のところに近寄ってきた。
「あのね、この人は高垣桂一郎っていって、駅前で『イカロス』って喫茶店やってるの。ちなみにわたしのおとうさん。そこまではわかるわよね?」
リツコ先生は僕の真横に立って言った。
あ、あの、どうでもいいんですけれど、か、かなり近いんですがリツコ先生?
香水のいい匂いがぷうんと。
「それでね、この人がこの春に素人劇団立ち上げたのよ、『イカロスの聖櫃』って言う名前の。だけど名前ばっかり立派で役者が一人も集まらなかったのね。というか、役者の選り好みばっかりしてるおとうさんが悪いんだけど」
「はあ」
「で、おとうさんがここの理事長と知り合いで、何人か貸してくれって話をして演劇部でオーディションしたの。だけどお眼鏡にかなう子がいなかったのね」
「そうなんですか」
「それでおとうさんが理事長に文句言ったら、それじゃ近々高校入試と転入試験があるから、その中から気に入った子を適当に選んだらって話になったの」
ぶっ。
や、八百屋でキャベツでも選ぶような言い方しないでください。
てか、高校入試ってそんなんでいいのか?
「それでまあ、おとうさんのお眼鏡にかなったのが、あなたと、ここにいる茜ちゃんなわけ」
「うちも昨日聞かされてびっくりしてもうたわ。面接んとき、なんや変なおっさん座っとるなあと思てたんやけど、あれマスターやったんやなあ」
壁際にいた茜が声を出した。
「まあびっくりしたけど、別に入りたい部活があったわけでもないさかいかめへんかなと思て入ることにしてん。団員はマスターの店、全メニュー二割引きっちゅう話やから食費も助かるさかいな。それにケンボーと一緒やったら心強いし」
「そういうわけで、茜ちゃんは役者ね。あなたは、まず脚本の勉強からはじめてもらうからよろしく」そう言いながらリツコ先生は僕の肩にぽんっと手を乗せた。
「まっ、待ってくださいっ。そんなの聞いてませんっ」僕は慌てて言った。
「いま言うとるやんか」茜はあたりまえのような顔をして言った。
「知らないよそんなのっ。茜が入るのは勝手だけれど、僕は無理だって。お芝居なんか小学校以来やったことないんだぞ。それだって森の木Aだったんだぞ。無理、ぜったいムリっ」
「お芝居やれなんて言ってないわよ? 脚本書きなさいって言ってるの」
「無理ですリツコ先生、絶対ムリ、書けませんってばっ」
「どうして? あなた作文で金賞とって、作家志望なんでしょう?」
う。まさかこんなことになるとは。
だけど今更あの作品は親父が書きましたなんて言えないしなあ。
「とっ、とにかく無理ですっ。てか、入試のときにそんな話、一言もなかったじゃないですかっ? 聞いてない話なんだから無効ですよ、いくら学校に入れてもらったからって無理やり劇団なんかに放り込まれるのおかしいですよっ」
「な、こないなるて言うたやろ」茜は僕を無視して、マスターとリツコ先生に話しかけた。
「ほんとだなあ」マスターが感心したように言った。
「さすがよくわかってるわねえ」リツコ先生もにこにこしながら言った。
「おいちょっと茜。わかってるんならおまえからもなんか言ってくれよっ」
「ところが訳あってそういうわけにいかへんのや」そう言いながら茜はゆっくりと僕に近づいてきた。「うちは劇団に入る。ゆえにケンボーもうちに続いて劇団に入る。そこにケンボーの選択肢なんかあらへんと思うんやけどなあ」
「か、勝手に決めるなよそんなことっ」
「あかん。これはうちからの命令や」
「なっ、なんだよそれ?」
「ケンボー。じぶん今朝、うちの言うこと何でも聞くて約束したわなあ」茜が、口の端でにやりと笑いながら言った。
ぐっ。そ、そうきましたか。
「おまっ、そっ、そっ、それは…茜が先に嘘をついたから」
「ほう。うちがどういう嘘をついたっちゅうねん?」
え? ちょっと待て。
僕は朝の会話を反芻してみた。
えーと……確かに、茜は僕が何をしたか、はっきりとは言っていない。
「だだだ、だっておまえっ、初めてだとか何とか」
「そうや。ケンボー、うちがベッドの中にいてんのに、おっきなおならして。うち、あんなんされたん生まれて初めてやわ」
お、おならって……。
「だ、だけどっ、僕が何もしないって言ったって」
「うちがベッドに入るとき、何もせんとってやって耳元で言うたら、ケンボーむにゃむにゃしもって、しないよ何にもって言うてたで。せやのに、ものの5分もせんうちにいきなりおならするんやもん。どついたろかと思たわ」
「あのパンツはっ?」
「あのパンツのどこに、ケンボーがうちから脱がしましたって書いてあった? じぶんが勝手に思い込んだだけやろ?」
ぐっ。
「……約束は成立。そいでええわな?」
「……はい」
負けた。
「お気の毒さま」マスターが合掌しながら声を掛けてくれた。「先に言っとくけど、俺がやらせたわけじゃねえからな」
「茜ちゃん、うちに任せときとは言ってたけれど、こういう手に出るとはねえ」リツコ先生が苦笑いをしながら言った。
わかりました。
もういいです。
劇団員でも消防団員でも、何でもやらせていただきます。
「ほならリツコはん、約束のもん」
「あ、そうだったわね。はいこれ」そう言いながらリツコ先生はスーツの内ポケットから何か細長い紙きれを出して茜に手渡した。
「まいどおおきに」
「おい茜、なんだよそれ?」僕は気になって聞いた。
「学食の食券三千円分」茜は平然として言った。「いやあ、これで今週と来週の昼飯代まるまる浮いたで。持つべきもんは、なんでも言うこと聞いてくれる優しき従兄妹やなあ」
ぶっ。
おおお、おまえっ、茜っ。
たった三千円で僕のこと売り飛ばしたのかっ。