第十幕 ステアウエイ
翌日の放課後、いつもの離れの和室。
「……それで、どうするのよミサキ? 何かいいアイディア出たわけ?」珠季が壁に寄りかかって立て膝をしながら言った。
「あ。はは。……全然。昨日、帰ってすぐ寝ちゃったし」
「あなたはどうしてそういつも行き当たりばったりなのっ? ちょっとは責任感じなさいよ責任っ!」
珠季は三角目になってミサキを怒鳴りつけた。
昨日約束したとおり、マスターの姿はない。
僕と珠季、ミサキ、茜、リツコ先生といういつものメンバーに加え、新顔の千里さんが座布団の上に行儀よく正座をしている。
その千里さんが申し訳なさそうに恐縮した声で言った。「……あの。すみません、私のせいで……すごいことになっちゃって」
「あ、いいのよ千里は気にしないで」珠季が、はっと気を使って言った。「どっちにしてもマスターとの勝負があったから二週間後に何かやらないといけなかったし」
「まあいいんじゃない? 負けたって別に何かされるわけじゃないんでしょう?」リツコ先生がお気楽な感じで言った。
「だけど先生、は、裸エプロンですよ裸エプロンっ。珊瑚にもまだやらせたことないんですよっ? それに演劇部って男子が半分近くいるんですよっ?」
「いいじゃない別にへるもんじゃないんだし。女は人に見られてきれいになるのよ」
「見られる時と場合によりますっ!」
う~む。
珠季、やっぱごきげんななめだなあ。
まあ当然か。
「なあリツコはん、一つ聞いてもええか?」体育座りをしていた茜が顔を上げて聞いた。
「なあに? 茜ちゃん」
「あんな、そういうときって、その、どこまでお手入れしたらええん? やっぱ、ちろちろって見えたりしたらはずいやろ?」
「茜っ。バカなこと聞いてないで対策考えなさいよ対策っ!」珠季が顔を真っ赤にして叫んだ。
「対策っちゅうてもなあ……。なんしろ時間があらへんし、うちらど素人やし」
「それがわかってるから困ってるんじゃないっ! ねえ千里、何かないかしら? なにか急激にお芝居がうまくなる方法とか、ギャラリーに確実にうける方法とか?」
「あの、そういうのはちょっと……」
「まあそらそうやろうなあ」茜が座敷机の上にぐでっとのびながら言った。「そんな特急券みたいなもんがあったら誰も苦労なんかせんやろ。芸の道は一日にして成らずや」
「……そ、そうですね。伝説の演出家、高垣桂一郎でもいれば話は違うんでしょうけれど」
え?
た、高垣桂一郎?
「ちょっと千里、いまなんて言ったの?」 珠季が座敷机の上に身を乗り出した。
「は? あの、『ステアウエイ』の高垣桂一郎のことですけど?」千里さんはきょとんとした顔でみんなの顔を見た。
「な、なんやのん? その『ステアウエイ』って?」茜も反応し、座敷机から顔を上げて聞いた。
「あの……あ、あれ? みなさんご存知ないんですか?」
「知らないわよそんなのっ。いいから教えてっ」珠季がさらに身を乗り出しながら言った。
「えっと、あの、『ステアウエイ』はいまから二十数年前に存在した伝説の学生演劇集団です。活動期間はわずか5年ぐらいなんですが、いまでも演劇関係者の間では語り草になっているんですよ」
「で、伝説って?」
「えっと、ホラーを演れば失神者が続出し、悲しい話を演れば観客全員が号泣し、その表現力はどの演劇集団からも突き抜けていたとか。当時日本で一番著名だった演劇誌は『ステアウエイの芝居を観ずして死ぬな。そして観た者は後の世にそれを伝えよ。それが彼らと同じ時代を生きる者の使命である』とまで書いたらしいです」
「ほ、ほんまかいな。たかが学生のお芝居なんやろ?」茜が目を丸くした。
「彼らはいつも小さな劇場でしか公演を打たなかったそうです。そのため入りきれない観客が二重三重に劇場を取り囲み警察が出動する騒ぎになって、入りきれない観客に応えるため二十四時間ぶっ続けで観客を入れ替えながら芝居を続けたこともあるそうです」
うわあ。
「ねえねえ千里、その劇団ってそんなにすごい役者がいたの?」興味を引かれたのか、黙って聞いていたミサキが前かがみになって聞いた。
「はい。劇団主幹で役者兼演出家の高垣桂一郎と、天才女優と呼ばれた神原千鶴。『ステアウエイ』はもともとこの二人が中心になって高校生のときに立ち上げた劇団なんです」
こっ、高校生で劇団立ち上げたんですか?
「神原千鶴は極限すらも超越する演技を見せた。千鶴が風が吹いたと言えば密閉された芝居小屋に風が吹き、寒いと言えば真夏の蒸し暑い小屋の中で観客がみな寒さに震えた。当時を知る人の回顧録にはそんなふうに書かれています」
ほ、ほんとのことなんですかそれ?
そこまでいくと眉唾っぽいんですけれど?
「その神原千鶴と高垣桂一郎が突然引退したのが二十四年前。理由は子供ができたから。千鶴さんは『これから私は母親という大役を演じます』という言葉を残して舞台を降りました。当時は新聞の全国紙にも載るほどのニュースだったらしいです。そしてそれ以降、二人は一度も表舞台に姿を見せていません。……あの、ですがそれが何か?」
「……偶然かも知れないけれど、私たちの劇団の代表、マスターの名前も高垣桂一郎って言うのよ」
そう言いながら珠季はリツコ先生の顔を見た。
珠季だけじゃない、僕も、ミサキも、茜も、みんながリツコ先生の顔を凝視した。
リツコ先生は照れくさそうに耳の後ろをぽりぽりと掻いた。
「困っちゃったなあ……そんなたいしたものじゃないんだけど……」観念したかのようにリツコ先生が口を開いた。「そうよ、『ステアウエイ』の高垣桂一郎はあの人、私のおとうさん。そして引退した千鶴のお腹の中に入っていたのがわたし」
「ええっ、リツコ先生って高垣桂一郎と神原千鶴のお子さんなんですかあっ? さささ、サインくださいサインっ。それからお母さまにもぜひ会わせてくださいっ!」千里さんが飛びつくようにしてリツコ先生の手を握った。
「わたしなんかのサインもらっても仕方ないんじゃない? それとお母さんは三年前に癌で死んじゃったわよ」
「え……そんな……。す、すみません。……ご愁傷様です」
「いいわよ気にしないで。それにお母さんも、そんなふうに昔のこと言ってくれる人がいたら喜ぶだろうし」
な、なんと言うか、二の句が告げない。
マスターってただのちゃらんぽらんな喫茶店の親父だと思ってたら、
そんな伝説になるようなすごい人だったんだ。
「あの、でもこれで問題は解決じゃないですか?」千里さんが嬉しそうに言った。「だってほら、この劇団には高垣桂一郎がついているんですよね? 高垣さんに指導と演出お願いしたら『アヴァロン』にだってきっと勝てますよ」
「それがそう簡単に行かないのよ」珠季が長いためいきをついた。
「あの、どうして?」千里さんがきょとんとして聞いた。
「あ、あのさ千里」ミサキが鼻の頭をぽりぽりと掻きながら言った。「あたしたちの次のお芝居ってさ、マスターとの勝負もかかってんだよね。だからさ、その……、次のお芝居はマスター抜きで、自分たちだけでやんなくちゃいけないわけで」
「ええええええっ! みなさん、高垣桂一郎に勝負なんか挑んだんですかあっ?」
全員、下を向きながら恥ずかしそうに肯いた。
「そっ、そんなの『アヴァロン』の比じゃないですよっ。だって『ステアウエイ』ってプロ参加の岩森日本演劇祭で鳳凰賞二年連続でとったんですよっ。それだけじゃなくて、高校生の時にローザンヌ国際演劇コンクールでグランプリとってるんですよっ?」
ぶっ。
こ、高校日本一じゃなくて世界一かいっ。
そんなの走高跳じゃなくて棒高跳びレベルのハードルだぞっ。
「あ、あのえと、千里? ほ、ほかに誰か『ステアウエイ』の役者さんで頼れそうな人っていないの? この際だからさ、下げられる頭は下げて頼んでみようよ?」
ミサキが珍しく建設的な意見を言った。
他力本願だけど。
「……主だった人はみんなプロになっていますから、面識すらない私たちに力を貸してくれるかどうか。メインだった役者というと桧室信行、早見誠司、巌さつき、花沢未樹、渡会祥子、冬村茂弘……」
はああっ?
ほ、ほとんどが、
プライム枠や銀幕でメインはってるベテラン役者さんたちばっかりじゃないですか。
「あと、高垣さんたちとほぼ同時に消えて行方がわからないのが、創設メンバーの一人で人気では神原千鶴さえ上回っていたといわれる清純派女優の惣領悦子……」
「えええええええっ!」珠季が両手を口に当てて絶叫をした。
「どったのさ珠季? なんかあったの?」ミサキが珠季の顔を覗き込むようにして言った。
「あの…惣領悦子って……私のお母さんのお嫁入り前の名前……」
「うえええええええっ!!」
今度は僕たちが声をそろえて絶叫をする番だった。
そうか、そう言えばリツコ先生と始めて会ったときに、マスターと理事長が知り合いだとか言ってたな。なんだか変な理事長権限は発令されているし、おかしいとは思っていたんだ。そうかそうか、そういうことだったのか。
「やったあっ。それなら話は簡単じゃんか、珠季のおかあさんに教えてもらおうよ」ミサキがうれしそうに言った。
「ねえ、いくら何でもそれはちょっと……誰かほかの人探さない?」
あれ?
珠季が珍しく愛想笑いなんか浮かべてるぞ。
「いいじゃん別に。親子だからって恥ずかしがることないよ」
「なっ、誰もそんな狭い理由で言ってないわよっ! 私はあなたたちのためを思って……」
「ええやんか別に。うちは賛成や」茜が言った。
「あっ、茜は知らないからそんなこと言えるのよっ。ネジ吹っ飛んでるんだからあの人」
「そやけどこの際ぜいたくは言うとられへんで。それに誰かて変なところの一つや二つあるやろ?」
「ハンパじゃないのよ変さがっ!」
「だけど並木学園の理事長やってるぐらいだから普通の人なんだろ?」僕は珠季の顔を見ながら言った。
「そんなの嫁入りする前から飛鳥の家が持ってたから面白半分で勝手に理事長になっただけよっ。あの人が理事長の仕事なんかするもんですか。ねえミサキ、あなた何度も家に来てわかってるでしょ、ちょっと言ってやってよっ」
「いいじゃんかすごくフランクだし。あたしゃ好きだよ珠季のおかあさん」
「フランクなんてレベルじゃないでしょあれはっ! 学園通信の俳句欄に『なんだって ばれなきゃいいのよ 人生は』なんて平気で寄稿して自分決済で載せちゃう人なのよっ」
ぶっ。
そそそ、それはなかなかフランクな。
だけどそれ俳句じゃなくて標語じゃないかな? 季語ないし。
「あれ? リツコ先生は?」ミサキが言った。
いつの間にかリツコ先生の姿が忽然と消えていた。
「……に、逃げたわね」珠季がぼそりと言った。
ああ、そう言えば口ぶりからしてリツコ先生、理事長知ってそうだったし。
「ええやんか珠季、それに、ほかに代案ないんやろ?」
「そ、それは確かにそうだけど……」
「じぁあいいじゃん。あたし、みんなの前ではだエプなんかやだもん。背に腹は替えらんないよ」ミサキが言った。
「私もすごく興味があります。まさか理事長が総領悦子だったとは……。ぜひご指導を受けてみたいと思います」千里さんもわくわくした顔で言った。
「み、みんながそこまで言うなら……私もこれ以上何も言わないけど…」珠季はついに観念したらしく、がっくりとうなだれて言った。「……だけど後から、裸エプロンの方がましだったとか文句言わないでよね?」