第九幕 青首大根
「……珊瑚さん、何を誤解なさったのでしょうね?」
僕たちは珊瑚が用意してくれた真新しい制服に着替え、屋敷の境界線を過ぎて学校の園庭の夜道を並んで歩いていた。あの家、制服の替えなんか置いてあったんだ。
時刻はもう十一時を回っている。
さすがに追っ手達もあきらめて帰っているだろう。
「一緒にお風呂に入っていただけなのに、どこに誤解するところがあったのでしょう?」
えーと、
千里さん?
それマジでおっしゃってます?
「千里さん? 千里さんって男性と一緒にお風呂入ったりするんですか?」
「はい。温泉に行ったら家族みんなで。父とも兄とも親戚とも入りますよ? それが何か?」
あ、オープンな家系なんだ。
「あのでも、ほら、僕って今日始めて会ったわけだし。よく知らないって言うか、そんな人とお風呂に入って、その、恥ずかしくないんですか?」
「だってケンボーさんは私のお芝居を初めてほめてくださって、私を助けてくださった方ですもの」千里さんはにこにこしながら言った。「だから私の大切な人です。恥ずかしいなんて思ったら罰が当たります」
そ、そうですか?
そういうものなんですか?
何か致命的にずれたりしてませんか?
「それとも変な剃り残しとかありましたでしょうか? 一応、毎日お手入れはしているつもりなのですが?」
ぶっ。
「あの……そういうのは……なかったと思います。というか、全然見ていませんし……」
「それじゃあ何も問題はありませんね」千里さんはにこにこしながら言った。
あ、あぶない。
ミサキや珠季も危ないけれど、この人は別の意味で突き抜けてあぶない。
「あの……千里さん。今日お風呂をご一緒したことはどうかご内密に」
「はい? どうしてですか?」
「あの……どうしてというか……その……」
「あっ」
千里さんは何かを思いついたように、胸の前で両手をぱんと合わせた。
「わかりました。私、絶対、誰にも言いません」
「そ、それはどうも」
「だけどケンボーさん、その……あの……」千里さんは、恥ずかしそうに僕の顔を横目で見ながら言った。「あの……私だって、その……全然見ていませんから、ほんとうに。そ、それにその……お、男の人の価値って大きさだけではないと思いますし……」
「違います。それと普通ですぼくは」
あ、汗が出てくる。
なんなんだほんとにこの人。
その時、千里さんがぴたっと足を止めた。
急に顔つきが険しいものになっていた。
「あ、あの、千里さん、どうかしました?」
「走ってくださいっ」千里さんが厳しい声で言った。
「え?」
「いいから走ってっ!」そう言いながら千里さんは僕の手を引いて走り出そうとした。
だけど僕たちが走り出すまでに、ざざあっ、という音がして木の上から人影が飛び降りてきた。
ひのふのみの、ろ、六人もいる。
僕たちはその人影に取り囲まれてしまった。
「くっ」千里さんは僕を背中にかばうようにして、その黒い影に対峙した。
あの、千里さん?
立つ位置が逆だと思うんですけれど?
「……やっと出てきたか。待ちわびたぞ」
声がして、太い木の陰から背の高い女性が姿を現した。
月明かりに照らされたその顔は
「あの、山田さん?」
「私をその名で呼ぶなあっ!」観音寺山田さんが声を張り上げた。
やっぱこの人、自信満々なようでコンプレックス深いんだなあ。
「……まあいい。おまえには関係がない。その女を渡してもらおう」
「……断る」僕は言った。「おまえたちなんかに彼女は渡さないっ!」
かっこいい台詞だと思うんだけれど、
千里さんの背後から言ってるから絵的にまぬけなんだよな。
あの、千里さん場所変わってください。
「もう一度言おう。これは我々『アヴァロン』の内輪の話だ。おまえには関係がない」観音寺山田さんが低い声で言った。
「お、おまえたち千里さんをどうするつもりだっ?」
「おまえの質問に答えるつもりはない。とにかく黙ってその女を渡して欲しい。我々も手荒な真似はしたくないのだ」
その言葉が終わらないうちに、観音寺山田さんの背後から巨大な影がぬうっと姿を現した。
で、でかっ。2mぐらいあるんじゃないかこいつ?
さらに、観音寺山田さんの右隣にいた男がなにやら怪しげな拳法の構えを取り始め、左隣の男は背中からすうっとトンファを取り出した。
お、おまえらほんとに演劇部か?
「い、いいかげんにしてください部長っ。さもないと私、お、怒りますよっ」千里さんが言った。
「ほう? 私にそんな口が利けるとは、おまえも偉くなったものだ」
「くけけけけ……、そんな口が叩けるのもいまのうちだぜ。どうせ泣きながら許してくださいと謝ることになるのだからな」拳法の構えをしていた男がいやらしい口ぶりで言った。
「……仕方ありません。ケンボーさん、下がっていてください」
千里さんが三歩前に出て、ふうっと息を吐いた。
あの、千里さん?
やる気なんですか?
無理ですよねどう考えても?
「いい度胸だ。いくぜえっ、うらあああああっ!」
トンファの男と2mが同時に左右から千里さんに襲い掛かった。
あぶないっ。
僕は思わず目を閉じた。
ばちぃっ、という音がした。
あれ?
だけど千里さんの悲鳴が聞こえてこない。
僕はおそるおそる目を開けた。
え?
月明かりに照らされ、ミサキが片手で2mのこぶしを、茜が特殊警棒でトンファを、それぞれ受け止めていた。
「どったのケンボー? これケンカ? それとその女の子だあれ?」相手のこぶしを押さえたままのミサキが、ぽかんとした顔で僕を見て言った。
「ミ、ミサキ。それに茜。ど、どうしてここに?」
「ん? あー、いま帰り。珠季んちでグダグタしてるうちにごはん呼ばれてお風呂もらって遅くなっちった。んで、いま何がどーなってんの?」
「どっちゃにしても丸腰相手にエモノ使うっちゅうのは感心でけへんなあ」
茜はそう言うと、持っていた特殊警棒をひゅひゅっと振り回した。
カカン、と音がして男が手にしていたトンファがふわりと宙を飛び、そのまま真っ直ぐに落ちてきてすっぽりと茜の両手の中に納まった。
「きっ、きさまっ。味な真似をっ」
「……それに使い方がなってへんわ。エモノっちゅうのは使いようなんやで」
そう言うと茜は特殊警棒を投げ捨て、手にしたトンファをすうっと構えた。
次の瞬間、茜の手元からトンファが消えた。
いや、消えたのではない、ものすごい速さで茜がそれを動かしたために消えたように見えたのだ。
そして茜がその動作を止めたとき、両のトンファは男の人中と金的の前一センチのところでぴたりと静止していた。
「あ、がっ」
男は目を丸くして、そのままその場に腰を抜かしてへたりこんでしまった。
「すっごーい茜。かっこいい」ミサキが感心した声を出した。
「てっ、てめえの相手は俺だあっ、よそ見するなあああっ」
右手をつかまれていた2mが、空いている左手をミサキに向けて振り下ろした。
だけどミサキは何食わぬ顔でそれも片手で受け止めた。
そして相手の両こぶしを握ると、そのままぐいっと相手の身体を持ち上げた。
うっ、うそだろおいっ。
ミサキはそのまま男を高々と差し上げると、近場にあった茂みに投げ捨てた。
2mは派手な音を立てて頭から茂みに突っ込んでいった。
「あのねえ、男の子が女の子に手なんかあげたらいけないんだからねっ」
おいっ、そういう問題かっ。
「きえええええっ!」
僕たちははっとして声のした方を見た。
しまった、他の連中に気を取られていて千里さんを見ていなかった。
拳法使いが下段の手をアッパーのように千里さんの顔面めがけて繰り出した。
だけど千里さんは身体を後ろへスウェーさせて難なくそれをかわし、そのまま両腕を伸ばして相手の後頭部をがっしりとつかんだ。
ばきっ。
どぐおっ。
相手の頭を抱え込むようにして、容赦なく左右の膝が飛ぶ。
む、ムエタイ? 首相撲?
最後にごきゃっという音をさせて千里さんが肘を顔面にめり込ませると、相手は一回転して地面に倒れこんだ。
「ひっ、ひええええっ、ゆ、許してくださあいっ」
あーあ、こいつ泣きながら謝ってるし。
「ばっ、馬鹿なっ。おいっ、他の連中はどうしたっ?」
観音寺山田さんが背後を振り返った。
そこに月明かりを逆光に浴びた珠季の姿があった。
足元に男たちが三人転がっていた。
珠季は何食わぬ顔をして手をパンパンと払いながら近寄ってきた。
「珠季、おっ、おまえたち、何でも暴力で解決しようとするなっ!」
おいっ、あんたが言うなあんたがっ。
「ちょっと山田、人聞きの悪いこと言わないでよ。なんだかよくわからないけれど飛び掛ってきたからお相手してあげただけなんだから」そう言いながら、珠季は僕の顔を見た。「で、これって何の騒ぎなの?」
「あ、いや、その、こちら小日向千里さん。あの、今日まで『アヴァロン』に所属していたんだけれど、退部して『イカロスの聖櫃』の入部希望者さんです」
「へえ、そうなの? よろしく、私、飛鳥珠季よ。あれ? あなたどこかで見た気が……」
「あーっ、この子、昼間ケンボーがひっかけてた子じゃんっ!」ミサキが驚いた声をあげて千里さんに駆け寄った。「ね、あんた大丈夫だった? ケンボーにセクハラとかされなかった?」
「あの、セクハラ、と申しますと?」千里さんがおずおずと聞いた。
「うちに入れてやるからおっぱい見せろとかパンツ見せろとかさ」
おいミサキっ、僕はいったいなんなんだ?
「ええとそうですねえ……そういうのは特に言われなかったですねえ……パンツも見られていませんし」
ほっ。
く、口止めしておいて良かった。
それにまあ、確かにパンツは見ていませんよパンツは。
…………って、思い出すなよ僕っ!
「まあええやんかちっさいことは」茜が手に持ったトンファをくるくる回しながら言った。「それより千里はんってエレイン演ってはった人やろ? うち、あんたのお芝居は上手いと思たわ、来てくれはるんやったら大歓迎や。ケンボー、ええ子たらしこんだやんか?」
あっ、茜っ。
人聞きの悪い言い方するなっ。
てか、化粧落としてるから舞台とまるで印象違うのに、一発でわかるんだ?
「そうね。それじゃ近いうちにマスターに面接してもらいましょうか」
「まてっ珠季っ。私はまだその者の退部を認めていないっ」観音寺山田さんが言った。
「ふうん」珠季が冷たい目で観音寺山田さんを流し見た。「このつまらないどたばたはそういうわけなのね?」
「並木学園生徒総則第三章三十六条二項の五、本校の特別予算指定枠に指名された部活動に所属しておりこれを一身上の都合で退部希望する者は、担任、顧問、当該部活動部長の承認を必要とする。おまえだってそのぐらい知っているだろう?」観音寺山田さんが一気にまくしたてた。
そんな漢字だらけの台詞かまずに言えるなんておねえさまってすごいっ。
あ、いや、
ほぼ誰にもわからないであろうパロやってる場合じゃないな。
「なっ、なんだよその非人道的な校則は? 学校の部活なんて入ろうが辞めようが本人の自由じゃないか。珠季、ほんとにそんな校則あるのか?」
「う~ん。うちの学校の部活は、お金かけるときはじゃぶじゃぶかけるからね。元取る前にポイポイ辞められると困ると言えば困るのよ」
珠季は指でカチューシャのあたりをぽりぽりとかきながら言った。
「だけど同条二項補足事項の三、第三者が容認しうる合理的な理由をもって退部を希望する者に対してはこれを拒否してはならない、というのがあるはずだけど?」
「ふんっ。そのぐらい私だって知っている。しかしっ」
そう言って観音寺山田さんは、びしっと指を珠季に突きつけた。
あの、
その指差しに何の意味が?
ただのオーバーアクションじゃないんですか?
「全国大会三連覇中の我々『アヴァロン』から抜けて大根劇団に移籍するなど、第三者が納得する理由になど到底ならぬわっ」
「ちょっと山田、あんたいま大根つった?」ミサキがずいっと足を踏み出した。
「大根も大根、聖護院や桜島、三浦、守口、亀戸、勢浜、美濃早生、辛味、赤山、国富、二年子、紅丸、源助や練馬大根にも遠く及ばない、できそこないで店頭にすら並べられない虫食いだらけの青首大根よっ。あーっはっはっはあ!」
あの、観音寺山田さん?
どうしてそんなマイナーな大根の名前まですらすら出てくるんですか?
やっぱ役者って?
「言ったなあ」ミサキが指の骨をぱきりと鳴らした。「好き勝手言いやがってこのヅカ女。あったまきたあっ。要するにあたしたちの方がちゃんとしたお芝居できるって証明すりゃいいんだろ証明すりゃあっ。勝負だっ!」
ミサキが指を二本突き立てて、びしっと観音寺山田さんに突きつけた。
おいミサキ、
おまえもつられてオーバーアクションになってるぞ。
「二週間後、あたしたちがあんたたちより優れた劇団だってことを全校生徒に認めさせてあげるよっ。それなら文句ないだろっ!」
うおいっ、ミサキっ。
ななな、何を言い出すんだ?
に、二週間後って、おまえマスターとの勝負にそんなものまで混ぜ込むつもりか?
「ふむ、面白い。言っておくが口から出た言葉は引っ込められないぞ?」
「上等じゃん。そっちこそ吠え面かくなよっ!」
「ちょ、ちょっとミサキ、本気?」珠季が心配そうに言った。
「いいじゃんか、こんなやつに大根言われて引き下がってたら気分悪くて寝られやしないよ。見返してやろうよ、汚名挽回だよっ」
いやミサキ、汚名は挽回しないで返上するものだぞ。
「……いいだろう、乗ってやる。勝負が終わるまで、我々はその女に一切手出ししないことを約束しよう。勝負にそちらの役者として使っても構わないし、おまえたちが勝ったら転部も正式に認めてやるから好きにするがいい」
「へえ、山田って意外とものわかりいいじゃん」ミサキが意外そうな顔をして言った。
「……その代わりそっちが負けたら、そうだな、裸エプロンで我々の部室掃除でもしてもらおうか」
「なっ、ちょ、ちょっと待ってっ!」ミサキがわめき声を上げた。「はっ、はだエプってなによっ、そんなマニアックなこと高校生がやっていいの?」
「あたりまえだろう? 我々ばかりにデメリットがある勝負など誰が受けるものか。それともきさま、自分が負けたときのことを考えていなかったのか?」
「なっ、あっ、ぐっ……」ミサキは言葉に詰まった。
ミサキ。
おまえほんとに何も考えてなかったろ?
「それでは勝負成立だな。おいっ、おまえたち立てっ」
観音寺山田さんの声で、地面に転がっていた演劇部の連中がよろよろと立ち上がった。
「それでは、二週間後を楽しみにしているぞ。せいぜい大根を洗って土を落としておくがいい。あーっはっはっはあ」
観音寺山田さんは高笑いをしながら、よたつく部員たちを従えて立ち去っていった。
えとあの。
き、決まりなんですかいまの?
決まりでいいんですか?
「ミサキいいいいいいいっ」
観音寺山田さんの姿が見えなくなると、我に返った珠季が顔を真っ赤にしてミサキの襟首をひねり上げた。
「あ、あなた勝手になんちゅう約束してくれるのよっ、も、もしも負けたらどうするつもりなの?」
「あ? はははは。そ、そんな怒んないでよ。勝てばいいじゃん?」ミサキが引きつり笑いを浮かべながら言った。
「気軽に言うけれどあいつら全国三連覇中よ? 今年も優勝候補筆頭なのよっ!」
あ。
珠季はやっぱそこんところわかってるんだ。
「だ、だって珠季だって茜だって、あいつらたいしたことないって言ってたじゃん?」
「それとこれとは話が別でしょっ。あなた何か勝つ為の秘策とかあるのっ?」
「あ、はは。……それはこれから考える」
「ばかあああーっ!!」
珠季の絶叫をよそに、黙って聞いていた茜が長いためいきをついた。
「やれやれ。こらどうやらおしりを洗といた方がよさそうやな」
い、いいのか?
ほんとにいいのか?
ほんとにほんとにそんな勝負やっちゃっていいのかあ?