第八幕 湯煙スカウティング
ぜいっ、ぜいっ。
こ、ここまでくれば一安心だ。
誰かが追いかけてきている気配もない。
「あ、あの、真珠さん? この人も中に入れてあげていいんだよね?」
僕は改めて確認をした。
「……はい。劇団の方々は全員『竹』扱いとするよう奥様から指示が出ておりますから」
真珠さんがクールな顔で言った。
え? そうなの?
知らなかった、僕って『草』から昇格してたんだ?
奥様って珠季のお母さん?
「追っ手は射殺? 刺殺? 絞殺? 撲殺? 薬殺?」
黒曜さんがメイド服のスカートの下からベレッタP4や真っ黒なダガーナイフ、注射器や極細のワイヤーなどを取り出しながら聞いた。
「あ、はは、いや適当に追い払ってくれたらいいから」
て言うか、殺す以外の選択肢聞いてくださいよ黒曜さん。
まあいいか。
僕と千里さんは安心して離れに向かって歩き出した。
「あ、あの、ここは?」
「ああ、安心してください。理事長邸の敷地だから追っ手も入ってこられません」
「あ、ありがとうございます。なんとお礼を申し上げてよいか」
「いいですよ気にしなくて。それよりシャワーでも浴びましょう、真っ黒けだし」
「あ、ほんとう。すみません、私のせいでケンボーさんまで」
改めて向き直ってみて、二人ともひどい状態であることに気がついた。焼却炉に入っていたのだから服も顔も灰で真っ黒けだ。
だけど千里さんはそれでもきれいだった。
講堂で会った時は舞台用のお化粧をしていたからわからなかったけれど、うちの劇団にはいない癒し系タイプだ。茶色かがった髪は肩にかかるセミロングで、目鼻は大きくないけれどバランスがいい。和風美人だな。身長は珠季より少し低い程度、女子としては高い部類に入りそうだ。
「ほんとうにすみません。いきなり巻き込んでしまいまして」
「ははは。そういうのはいいです。ここのところ強制イベント続きで慣れていますから」
「はあ? あの、それはどういう意味なのでしょう?」
「アニメやゲームに憧れるやつは現実の恐ろしさをを知らない、という意味ですね」
「はあ。よくわかりませんが大変そうですね」
僕たちはそんな話をしながら離れに向かって歩いていった。
小道を折れて日本庭園に差し掛かると、
橋の手前にメイド服姿の珊瑚がいて掃き掃除をしていた。
「あんだあてめえ、また戻って来やがったのか?」珊瑚は僕の顔を見て露骨に嫌そうな顔をして言った。
あれ?
真珠さん確か僕が『竹』ランクになったって言ってたよな?
まあいいか。
「ああごめん、ちょっと服を汚しちゃってさ。珠季たちは?」
「なんか資料を探すとか言って本館の方に行ったぞ」
「そうか。ごめん、ちょっとお風呂場借りるよ。それからこの子に何か代わりの服を出してあげてくれないかな?」
「んあ?」
珊瑚は腰に手を当てて、千里さんの頭のてっぺんからつま先までをじろじろと見た。
「……わかった。他にいるものねえか? てめえはどうすんだ?」
「風呂の中で洗濯するよ。もし良かったら、乾くまでの間羽織ってられるもの出しておいてくれると助かるんだけれど」
「ちっ。手間かけさせやがって」
そう言いながらも珊瑚は、肩に箒を担いですたすたと離れの中に入っていった。
う~ん、あいつがこう素直に言うこと聞くところを見ると、ほんとに僕って『竹』ランクになったんだろうか? だけどどうしていまでもタメ口?
まあいいか小さいことは。
とりあえずこの灰だらけの制服を何とかしないと話にならない。
僕と千里さんは正面から入って小天守に向かった(ミサキが抜いた壁はきちんと修復がされていた)。
僕は脱衣所に入って千里さんに向き直った。
「中は内風呂と露天に分かれています。僕は先に入って露天の方に出ていますから、お気兼ねなく浸かってください。タオルはそのへんのもの適当に使っていいと思います。あと、あがって着替え終わったら、さっきの子に僕を呼びに来させてください」
「は、はい。あの、ほんとうにありがとうございます」
「あはは、全然気にしないでください。ここ僕の家じゃありませんから」
そう言いながら僕は、タオルを持って服を着たまま風呂場に入った。
豪華な内風呂を通り抜け(ほんとスーパー銭湯みたいだ、浴槽がいくつもあるどころか打たせ湯や寝湯、泡風呂にサウナまである)僕は露天に足を踏み入れた。
うわ。なんだこりゃ。
周囲を生垣に囲まれているのだけれど、とりあえずでっかい。滝の流れている泳げそうな岩風呂、檜風呂、ジャグジー、それになぜかドラム缶風呂まである。なんだか外にあるべきものは全部持ってきましたって感じでバランスがむちゃくちゃなんですけれど。
まあいいや。
僕は内風呂から見えないよう、岩陰に回りこんで服を脱いだ。
そして頭からかかり湯を何度もした。
真っ黒に汚れたお湯が足元に滴り落ちた。そりゃあそうだよな、焼却炉の中に潜り込んだんだから。しっかり洗い流しておかないと、湯船を汚したら珊瑚に文句言われそうだな。
十杯ぐらいかかり湯をしてから着ていたものに液体石鹸をつけてじゃぶじゃぶと洗い、別の手桶にお湯を張ってそこにつけた。そしてもう一度、手桶でお湯を何杯も流して洗い場の灰をきれいにしてから、岩風呂に身体をしずめた。
ううう、極楽極楽。
僕はタオルを丁寧にたたんで頭の上に乗せた。
ふだんはアパートのユニットバスばかりだから、こういうふうに脚を伸ばしてお風呂に浸かるのって本当にひさしぶりだ。いい気持ちだ、やっぱり日本人はお風呂だよな。おまけにこんな広いお風呂を独り占めなんて、大名にでもなったような気分だ。
そう言えば、僕ってほんとに『竹』になったんだろうか?
だけど『竹』ってどんなランクなんだろう?
珊瑚とか真珠さんに、お背中お流ししましょうかなんて言われたりして。あははは。
「あの、お背中お流ししましょうか?」
そうそう、そんな感じ。
感じ?
え?
僕はおそるおそる声のした背後を振り返った。
千里さんが立っていた。
すすす、すっぱで。
「ちっ、千里さんっ。どどど、どうしてこっちへ?」
僕は慌てて頭の上に乗せていたタオルで股間を隠し、視線をそらせながら言った。
「だってケンボーさんが露天に入るとおっしゃっていたじゃありませんか? 私に来るなともおっしゃいませんでしたし」
いいい、いや確かにそれはそうなんですけれど、
あのでも千里さん?
常識で考えてわかりませんか?
「まだ浸かられます? お隣ご一緒してよろしいですか?」
千里さんはそう言うと、固まっている僕の返事を待たずに片足を湯船につけてきた。
僕は首の筋を違えそうなほど力いっぱい横を向く。
いいい、いや千里さん、
こういうのっていくらなんでもアレじゃないですか、ほら。
「ああ、いいお湯」
千里さんがすっかりお湯の中に浸かった気配がしてきた。
僕はおそるおそる横目でそれを確かめてみた。
ぶっ。
僕は慌ててもう一度反対側に顔を背けた。
ちちち、千里さんっ、前ぐらい隠してください前ぐらいっ。
てか身体細いくせに胸でかっ。茜よりでかっ。
「あら、ケンボーさん? 湯船の中にタオルをつけちゃいけないんですよ?」
千里さんは平然とした声で言った。
ななな、何言ってるんですか何をっ。
いったいなんなんだこの人?
「だけど今日は助かりました。ほんとうにありがとうございました」
千里さんがぺこりと頭を下げたのだろう、お湯の振動が伝わってきた。
「あ、いえ。だけどあの、いったいどうしたんですか、あの連中」僕は微妙に震える聞いた。
いや、何か話していないと、黙ってじっくりなんて入っていられません。
色即是空、空即是色。
「……演劇部の人たちです。私、今日退部を申し出たんですけれど……その、許さないとか言われて」
はあ?
「……私、才能ないんです。お芝居が好きで頑張ってきたんですけれど、台詞のついた役がほとんどもらえなくて……。今日、はじめて台詞の多い役をいただいて一生懸命演ったんですけれど、周りとのバランスがとれないとか散々言われて……悲しくなって」
「そ、そんな。あんなに上手かったじゃないですか?」僕は驚いて言った。
実際、千里さんの演技は光っていたと思う。
絵空事っぽいお芝居が多い中で千里さんの演技だけが生身の人間を感じさせた。ぐぐっと引き込まれる演技だった。
「……そんなこと言っていただけるの、ケンボーさんだけですよ」
千里さんは悲しげな声でそう言ってくすりと笑った。
「ほ、ほんとですよ。それに、千里さんご自身がお芝居好きなんでしょう? いまご自分でおっしゃったじゃないですか? だったらどうしてやめるだなんて」
「……これ以上続けていても、役なんかいただけそうにないですから。それに、部室で意味もなくメイドさんやバニーガールの服装でお茶を入れさせられたりして……ああいうのってあまりお芝居に関係ないとも思いますし」
ぶっ。
い、いるんだよな、2Dとリアルの見境つかないやつらって。
「それで退部を?」
「……はい。だけど退部届けを出した瞬間、大勢に取り囲まれて……。隙を見て窓から飛び出したんですけれど、すぐに追っ手がかけられてしまいました。あ、あの……抜け部員は追っ手につかまったら何をされるかわかりませんし」
「あの、何をされるかわからないって?」
「えっと……その……あんなこととかそんなこととか…」
ぶっ。
「ほ、ほんとですか? だって高校の部活でしょう?」
「……真偽の程はわかりません。怖くて誰も抜け部員になった者なんていませんから」
う~ん。
忍者とか暴走族ならともかく高校の演劇部でそれはちょっとなあ。
だけど、やりたいことがはっきりしているのにやれないって、辛いんだろうなと思う。
僕なんか流されているだけだから、余計にそう思ってしまうのかも。
ネットやスマホで無駄情報ばかり蓄積し、
人が一所懸命創ったもの、やっているものに批判ばかり。
それも、自分の好き嫌いをもっともらしく理論武装しているだけだ。
それじゃあ自分が何をしているのかというと、何の努力もしていない。
そのくせ人と同じはいやだと言う。
それが、僕だ。
マスターの課題に対して僕が書いているものだって、
ほかの高校生が絶対に書かないであろうことを狙って書いているだけだ。
それは『個性』なんかじゃない、僕の書きたいものじゃない。
そもそも僕は『自分の書きたいもの』なんか持っちゃいない。
そう、僕は何にも持っちゃいないんだ。
「あの、ケンボーさん?」千里さんが怪訝そうな声を出した。
う、いかんいかん。
ついつい意味もなく自虐的なモノローグに入ってしまった。
「あの、だったらうちの劇団に入りませんか?」
僕はとりあえず言ってみた。
「はい?」
「あ、いえ、僕たちも劇団やってるんですよ。と言ってもこの春にできたばっかりなんですけれど。僕たちのところなら人が少ないから役もつきやすいと思うし、セクハラもありませんから」
まっぱで混浴しながらセクハラありませんなんて、何言ってるんだ僕?
だけどこれってセクハラ?
どっちかというと逆セクハラのような……いや、もちろん嬉しいんだけど。
「あの……だけど、よろしいんでしょうか? 私みたいなへたくそ、ご迷惑では?」
「だってお芝居が好きなんでしょう?」
「……はい」
「だったら一緒にやりましょうよ。千里さんさえよろしければ代表に頼んでみます。保証はできませんが」
「あっ、ありがとうございますっ!」
いきなり千里さんが大きな声を出して、ざばっとお湯を蹴立てて立ち上がった。
え?
僕はびっくりして千里さんの方を見てしまった。
ぶっ。
千里さん前っ、前っ。
「うれしいっ!」
千里さんはそのまま、お尻をつけて座っている僕の身体をまたぎ、
覆い被さるように正面から僕に抱きついてきた。
お湯の中でお互いの素肌が密着する。
「ちょっ、ちょっと千里さんっ、あのっ」
「あっ、ありがとうございますありがとうございますケンボーさん。わたし、わたしっ!」
だだだ、だめっ千里さん、本気やばいってっ。
ふふふ、ふたりともまっぱなんですよ?
うあああああっ、柔らかいものが僕の胸におしつけられてぐにゃりとっ。
「私もうお芝居ができないんだって、それは自分の力不足だから仕方ないんだって、だけどやっぱり切なくて、哀しくって。ああ、ほんとうにありがとうございますっ。ほんとうにほんとうにありがとうございますっ」
そう言いながら千里さんは腕の位置を変え、僕の顔を胸にぐいっと抱きかかえた。
だだだだだ、だめっ、まっぱの胸はだめっ、
やっ、やめてやめてやめてやめてっ。
「……人んちの風呂でいい身分だな」
背後から声が聞こえてきた。
僕が首をひねって後ろを振り向くと、
珊瑚がジト目になってしゃがみながら僕たちを見下ろしていた。
「着替えが準備できたって言いに来てやったんだけど、おじゃまだったみたいだな」
「ああそれはどうもご丁寧にありがとうございます」
千里さんが僕を抱き締める手をゆるめず、にこにこして言った。
あ、あの、千里さん、
こういうの他人に見られてなんとも思わないんですかあなたはっ。
「ちっ、違うっ。珊瑚っ、これは誤解だっ!」
「……誤解する余地なんかねえと思うんだけれどな」珊瑚はそう言ってすっくと立ち上がった。
「あっ、ちょっと待って珊瑚ちょっとっ!」
「……お嬢には黙っといてやるよ。てか、こういうの報告したらあたいまでとばっちりがきそうだし」
「そうじゃないっ、いやそれもあるけれどそうじゃなくって」
「言っとくけど湯船の中に出すんじゃねえぞ。そういうの掃除させられるもんの身にもなりやがれ」
ち、違うっ。
なに馬鹿なこと言ってるんだっ。
いいから待て珊瑚っ。
それから千里さんっ、いいかげん離れてくださいっ。