第七幕 カーボネックのエレイン
「みなさーんっ、ありがとーっ」
講堂を埋め尽くした生徒たちから一斉の拍手。
舞台の上には出演していた役者がずらりと整列して手をつなぎ、
スタンディングオベーションに応えていた。
僕は講堂で開かれた『アヴァロン』の春公演を見に来ていた。
演目は『アーサー王と円卓の騎士たち』。劇団名からもわかるとおり彼らの得意演目であるらしく、たっぷり三時間もある大作に仕上がっていた。
一応僕も劇団に入っているのだからと、最近は色々と演劇関係の本を読んだりビデオを見たり、あるいはネットで調べてみたりと、ちまちまと造詣を深めるよう心掛けている。
だけどこいつらの舞台は、そういう『あるある知識』を見事足蹴にしてくれる代物だった。
衣装は映画みたいに本格的な代物ばかりだし、セットだって 書き割りじゃなく立体構造物だ。おまけに回り舞台でセットが変わるわ、ムービングライトがくるくる回るわ、音響はサラウンドだわ、ジェットホーンは噴出するわ、ワイヤーアクションで人は飛ぶわ、火柱はあがるわ、とても高校生の舞台だとは思えない。
高校の演劇部がどんだけ金かけてんだ?
つーか、こんなの高校の大会で演じるのルール上無理だし。
ちなみにアーサー王物語というのもネット予習してみた。日本ではかっこいい騎士物語みたいに受け取られているふしがあるけれど、基本的にはドロドロ系の愛憎劇だ。アーサー王の妃であるグィネヴィアと騎士ランスロットの不倫がバレて円卓の騎士が分裂し、王国が音を立てて崩れていくというのがお話の骨格になっている。
とにかく昔の物語だから、不倫だの近親相姦だのという下りがやたらと多い。謀反を起こして最後にアーサーと相打ちになったモードレットは、アーサーとアーサーの異父姉モルゴースとの近親相関によって生まれた子供だ。高名な魔術師マーリンだって貴族の娘と夢魔の間に生まれた子供だし。
忠義の騎士と名高いガウェインだって、同じ円卓の騎士であるペアレスに仲を取り持ってくれと頼まれた女の子を寝取っちゃったり、森で出会った妖精との間に子供をもうけたりする。
もちろん『アヴァロン』の舞台は、そういう生臭いところはほとんどカットして騎士道っぽい冒険活劇に演出されていた。当たり前の話として、高校生のお芝居なんだからあまり艶っぽいこともできないし。
ただし、聖騎士ガラハドの母、カーボネックのエレインの演技だけは別格だった。
エレインというのは王様の娘なんだけれど、あまりにきれいだったので魔女モルガン(アーサーの異父姉)に恨まれ、魔法で閉じ込められて熱湯で茹でられていた。それを助けに来てくれたランスロットに恋焦がれてしまうわけだ。そして彼がグィネヴィアを愛していると知り、魔法薬を使って自分をグィネヴィアだと錯覚させ強引に契りを交わして子供まで身篭ってしまうという、かなりアブない人である。
このエレインが出てくると舞台の空気が変わった。
「ああ、ランスロットさま。来てくださったのですね」
「グィネヴィア。私は騎士として……」
「皆までおっしゃらないでくださいませ。騎士として口にできないこともおありでしょう」
「グィネヴィア……」
「それに……私の欲しいものは言葉ではなく『証』なのです。まごうことなき貴方の」
文字に置き換えると情熱、情愛の表れのようだけど、エレインの声には、はっきりとした『狂気』が宿っていた、少なくとも僕の耳にはそう聞こえた。
愛する男に、自分を恋敵であると思い込ませて抱かれようとするなんて、正気の沙汰じゃない。それは情熱の強さではなく、狂気の深さだ。エレインを演じた役者さんは脚本をそう解釈したのだろうし、そう演じて見せた。おそらくは脚本を一字一句変えることなく、しとやかに、高貴にそれを演じながらも悲哀の物語を静かなる狂気の世界へと創り変えてしまっていた。
そういうわけで、全体的には悲恋を含んだ冒険活劇だったけれど、エレインの出てくる数分間だけは何というか、まるで別物の舞台だった。
誰なんだろうあの子? 全体の雰囲気からは浮き気味だったけれど、いい演技だったよな。
役者挨拶が終わって照明が全灯になり、僕たちはゾロゾロと出口に向かった。
出演していた役者たちが先回りして、ホールの扉から表玄関まで左右に分かれて花道を作っていた。へえ、こんなことするんだ?
ランスロットをやっていたのは観音寺山田さんだ。ファンに取り囲まれて写メ攻めサイン攻めに遭っている。ちらりと目が合ったらぎろりと睨まれた。ああこわ。だけどまあ確かに、ああいうお芝居ってはまり役だよなこの人。
出口近くにカーボネックのエレインがいた。近づいて見てみると、すごくきれいな人だった。化粧がきついから素顔の感じはわからないけれど、一人で立っていると、どこかしらほわんとした雰囲気が漂っている。
う、どうしよう?
アーサーやらグィネヴィアなどメイン役者の前は人だかりができてるけど、この人のところ誰もいないし、お話しするチャンスと言えばチャンスだよな。
ちょっと迷ったけれど、僕は勇気を出して声をかけてみることにした。
「あ、あの」
「はい? なんでしょうか?」役者さんは小首をかしげてにっこりと笑った。
すごくきれいな、歌うような声だった。
舞台の上と全然違う。
たぶん舞台の上では役に合わせて声を作っていたんだろうな。
「あの、素敵でした、あなたのお芝居」
「え?」役者さんは意外そうな顔をした。
「あの、なんと言うか、一番人間臭かったというか、生身っぽかったというか。その、とても良かったと思います。僕はそう感じました」
「あんなお芝居が、ですか?」
役者さんはますますきょとんとした顔になった。
「え、ええ」
役者さんは、口元に手を当てて少し考えるような顔になった。
あの、僕なにか変なこと言いました?
だけどほんときれいな人だ、背も珠季ほどではないけれどけっこう高い。165㎝ぐらいありそうだ。紫色のクラシックなドレスがすごくよく似合っている。胸元が大きく開いていて、その、なんだ、た、谷間がしっかり見えてるし。
「あ、あの、ごめんなさい変なこと言って。それじゃ」
なんとなく気まずかったので僕は慌てて立ち去ろうとした。
だけど、僕の手首をその役者さんがとった。
そしてそのまま僕の胸に身体をすうっと預けてきた。
え?
「……うれしい、です」
は?
いえあの、ちょっと。
「ありがとうございます。ほんとうに、私みたいなものに」
役者さんはそう言いながら僕の胸にぴったりと横顔を押し付けてきた。
ちょちょちょ、ちょっと待って。
あのここ、講堂の玄関前なんですよ?
ひ、人がいっぱいいるんですよ?
だからちょっと、あの、こういうのまずいってば、ほんとに。
その時、背後から両耳を思いっきり引っ張られた。
「あいててててててっ!」
「ちょっとケンボー、あんた何やってんのこんなとこでっ」
「手が早いのもほどほどにしなさいっ」
ミ、ミサキと珠季っ?
そ、そうだ、こいつらも確かこの芝居を見に来るって。
「違うっ、こ、これはそのっ」
「問答無用っ。行くわよっ」
二人はそう言うと、僕の耳を片方ずつつかんだまま表に向けて歩き出した。
僕は両耳を引っ張られて後ろ向けに引きずられる体勢になった。
あててててててっ、み、耳がちぎれるっ。
「痛い痛い痛い痛いっ! ちょっとミサキ、珠季、ほんとに痛いっ、耳がちぎれるっ!」
「うるさいっ、この色情狂っ」
ふたりは僕を引っ張ってずんずんと歩いて玄関の外に出た。
エレインの役者さんが僕に向かって深々と頭を下げるのが見えた。
あ、いや、そんなドレスでそんなお辞儀をされたら谷間が、ブラちらが。
だけど痛い痛い痛いっ。
ほ、ほんと耳がちぎれるってばっ!
▽ ▽ ▽
「ねーマスター? もうぼちぼち本格的にお芝居の練習やろうよお」
ミサキが畳の上に脚を投げ出しながら言った。
「いいかげん変な課題ばっかすんの飽きちゃったあ」
いつもの離れの和室。ミサキ、珠季、茜、リツコ先生、そしてマスター、全員が勢ぞろいして座卓を取り囲んでいた。
「なんだあ? アヴァロンの芝居観て自分でも演りたくなったのか?」立膝をしていたマスターが言った。
「あー、まあそれもあるかも。なんか人前でお芝居するのって楽しそうだしさ」
ミサキはそう言ってクセっ毛の頭をぼりぼり掻いた。
「んでどうだった? 連中の芝居は?」マスターはミサキの顔を眺めながら聞いた。
「ん? あー、面白かったよ。派手だったし」
「そうか。どんな芝居でも観て面白いと感じるのはいいことだ。それで肝心の演技の方はどうだった? 何か参考になったか?」
「ん? あー、よくわかんねかった。なんか絵空事っぽかったし、こんなんでいいのかなって感じで」
おいミサキ。
確かに僕もピンとこなかったけれど、あいつら全国三連覇中なんだぞ?
「茜はどうだった?」マスターが茜に聞いた。
「ミサキと同じや。おもろかったけど、芝居がどうっちゅうのはあらへんかったなあ」
「珠季は?」
「同じですわ。上手だけれど面白みのないお芝居とでも言うんでしょうか、全てに無難すぎて奥行きを感じることが出来ませんでした」
「そうか。そいじゃあ、ぼちぼち次のこと演ってもいいかな」
そう言いながらマスターはにやにやしてみんなの顔を見渡した。
「二週間後、それぞれに一人芝居を演ってもらおう。演目は自由だ。何を演るかそれぞれ勝手に考えて自分で演りたいように演ってくれ」
「はあ?」
みんな一斉に目が点になった。
「あの、おっしゃっている意味がよくわからないのですが?」珠季がみんなを代表するように言った。「私たち、まだ何も教えていただいていないんですよ? 発声や滑舌の練習すらしたことがないんですよ? それをいきなり一人芝居と言われても……」
「ああ、そんなもん自分で適当に本でも買って勝手に練習しとけ」マスターはこともなげに言った。
い、いや、そんな乱暴な。
「だいいち俺は、まだおまえらがどれだけ演れるかわからねえしな。いいから、いっぺん自分で考えて自分で演ってみろ。今後の指導方針はそれを見て考える」
場がしいんとなった。
なんなんだよそれ、僕は思った。
できるわけないじゃんかそんなこと。
「……マスター? それ、でかいこと言うぐらいやったら自分でなんぼのもんができるか見せてみいっちゅう意味なんか?」
茜がマスターの顔を睨みながら聞いた。
おいおい、そういう喧嘩腰の物言いはよくないぞ。
僕らは素人なんだからもう少し謙虚にだな。
「受け止め方は自由だ。俺はただ、今のおまえらがどれだけ演れるのか見極めたいと言ってるだけなんでな」
「受け止め方が自由ということは、勝負、と理解してもよろしいわけですね?」
あちゃあ。
珠季もまたカチンときたのか、挑むような目つきで言った。
「いいんじゃねえか? そっちの好きにすれば」マスターはそう言ってにやりと笑った。
「……わかりました。その勝負、お受けいたしましょう。茜、ミサキ、いいわね?」
「ええんちゃうか。ちゅうか上等や」
「あー、よくわかんないけど、珠季と茜がそいでいいなら」
あのさおまえら、
何かと勝負に持ってくのってどうよと思わない?
てか演劇でバトルなんかするなよ、ふつうにやろうよ。
「それでお芝居のテーマは? なにか伺っておくことはありますか?」
「ねえな。何もねえ」マスターは飄々とした感じで言った。「俺はおまえらの力が見られりゃそれでいいんだ。一人で演りにくけりゃ二人で演っても三人で演ってもかまわねえぞ。とにかく、これが自分の芝居だってえのを自分で考えて俺に見せてくれよ」
「……わかりました。それでは今日から二週間、各自が自分の芝居を作るための準備期間と考えさせていただきます」
珠季。
眼、眼が武道家になってるぞ?
「ああそいでいい。ネタバレは面白くねえから俺はしばらく顔を出さねえようにするよ、邪魔しねえから自由に演ってくれ」
そう言うと、マスターはすっくと立ち上がった。
「そいじゃあな。二週間後、楽しみにしているぜ」
▽ ▽ ▽
やれやれ。
なんでこんなことになるかな。
僕は夕日を浴びた小道を一人とぼとぼと学校に向けて歩いていた。
とりあえずそれぞれが自分の演りたいお芝居を考える、ということで集まりを一旦バラすことになった。
僕は書き屋だから、みんながどんな芝居を演りたいかが決まらないとすることがない。そういうわけで、離れに残っていても仕方ないから先に帰ることにしたわけだ。どうせ後から無理難題を押し付けられるんだろうし、楽できるときには楽をしておこう。
飛鳥家との境界線を過ぎ、学校の敷地に入ってしばらくしたところで、ものものしい気配がした。
数人の男子生徒がバラバラっと走ってきたかと思うと、立ち止まって一斉にあたりの茂みを棒で突きだした。
「おいっ、いたかっ?」
「いませんっ」
「畜生っ。必ず見つけろ、我々からは絶対に抜けられないということを教えてやれっ」
「はっ」
そう言うと男たちはまたバラバラっと走り去っていった。
な、なんだ? なんですか?
よくわからないけれど、見るからに係わり合いにならない方が良さげですよね?
僕は少々びびりながら校庭の方に足を進めていった。
そのまま校舎の横まで来たとき、道端にコンビニ袋が落ちているのが目に付いた。誰だよ学校の中にゴミなんか捨てるやつは。
僕はそれを片手で拾い上げ、どこかにゴミ箱はないかあたりを伺った。
すぐ近くに大きな焼却炉があった。煙が上がっていないところを見ると、いまは何も燃やしていないみたいだ。ちょうどいい。僕はすたすたと焼却炉に歩み寄って、大きな鉄製の扉をよっこいしょと開いた。
え?
うそ?
中に人がいた。
すごくきれいな女子生徒が。
「あ、あの?」
僕が口を開いた瞬間、中にいた子が僕の手を引っ張った。
僕はもんどりうって焼却炉の中に転げ落ち、そのままガシャンと扉が閉じられた。
あいてててて。
なんだなんだ? なんでこんな、学校の焼却炉がミミックみたいに。
それにしてもなんだか顔の辺りが生暖かい、
どうなってるんだ?
僕は完全な暗闇の中でごそごそと手を動かして、自分の顔に密着しているものに触れてみた。
え?
こ、この手触りは、もしかして、ふふふ、太もも?
んでこのしっとりしたコットンの手触りは…ももも、もしかして、パンツ?
うっ、うわっ、
僕もしかして、逆さまになって女の子のスカートに頭突っ込んでます?
「ごっ、ごめんっ」
僕は慌てて脚の間から頭を抜こうとした。
「しっ。動かないでくださいっ」
僕の股間あたりから女の子の声がした。
あのあのあの、
こっ、この体勢ってもしかして噂に聞くアレですか?
「……すみません。音を立てると追っ手に気づかれますから、もうしばらくこのまま我慢していただけますか?」
え、いや、我慢ってあのその。
ん?
なんか聞いたことある声のような気が。
「巻き込んでしまってすみません。事情はあとからお話いたします。とにかく追っ手の気配がなくなるまで、しばらく静かにしていただけますか?」
静かだけれども、歌うようにきれいな声だった。
こ、この声はもしかして?
「……あの、エレイン、さん?」
「え? あ、はい。確かに今日はその役をしておりましたが、どうしてそれを?」
「あ、あの、覚えていただいてないと思いますが、今日、舞台が終わってから、その、声をかけさせていただいた者です」
「ああ、あの時の」女の子は少しうれしそうな声を出した。「失礼しました。私、二年C組の小日向千里と申します。どうぞ私のことは千里とお呼びくださいませ」
「あ、えと、僕は有森、有森小太郎。人からはケンボーと呼ばれています。二年W組」
「小太郎さん? ケンボーさん? あの、よろしくお願いいたします」
あの、よろしくもなにも、
お互いが股の間に頭を突っ込みながら自己紹介するのって問題感じませんか?
「あの、千里さん、どうしてこんなことに?」
「……すみません。いま詳しい事情はちょっと」そう言いながら千里さんは、扉をほんの少しだけ開けて外の様子を伺った。
光が入ってきて自分の置かれている状況がさらによくわかった。
ががが、眼前にパンツ、
両頬に太ももっ。
「……いまなら追っ手の姿はないようです。あなたはこのまま逃げてください」
「あ、あの、逃げるって、千里さんは?」
「……たぶん、学校の出入り口は見張られているでしょうからこのまま隠れています。いずれ見つかるでしょうが、あなたを巻き込むわけにはまいりません」
そ、そんなこと言ったって、女の子一人残して僕だけ逃げるわけにはいきませんよ。
事情は全くわからないけれど、追われているんだったら安全なところに避難させてあげるべきですよね?
「千里さん、いまは辺りに誰もいないんですね?」
「はい」
「一二の三で飛び出しましょう。そのまま僕についてきてください。いいですね?」
「え? はい。あのでも」
「いいから。時間がありません、いいですね?」
いやほんと、自制の限界です。
ふ、太ももとパンツからほわんとした暖かい湿気が。
「いいですねいきますよ。一、二の三っ」
僕たちは扉を開けると焼却炉の外に飛び出した。
僕は千里さんの手を引いたまま、一目散に飛鳥邸に向けて走り出した。
幸い、行く手には追っ手の姿がなかった。
僕たちは園庭を一気に駆け抜け、息を切らせながら飛鳥邸との境界線にたどり着いた。
「ごめん黒曜さん真珠さんっ、追われてるんだこの人も中に入れてっ!」
僕はそう叫びながら二人のメイドの間をすり抜けて飛鳥邸の敷地内に飛び込んだ。