第一幕 純情の白パンツ事件
突然の質問です。
少し肌寒い春の朝、一人暮らししている自分のアパートで目覚めたらあなたはどうしますか?
いや、そんなのどうもしないよな、質問になってない。
なに言ってるんだ僕は?
落ち着け、落ち着けよ、僕。ちゃんと質問に状況を織り込めよ。
ごめんなさい混乱しています、もう一度。
もしも、もしもですよ?
その目覚めたときに可愛い女の子がベッドの隣に寝ていたらあなたはどうしますか?
① 混乱する。
② 狼狽する。
③ 動転する。
④ 頭が真っ白になる。
自信を持って言います。僕の場合、その全部です。
なぜそんなことが言い切れるかというと、
僕はいま、そのとんでもない状況のど真ん中にいるからです。
昨夜の帰宅は午後六時ごろでした。学校から帰ってきてコンビニ弁当を食べ、パソコンのメールチェックをし、テレビを見て動画共有サイトを見てシャワーを浴びて一人で寝たのが午前零時半ぐらい。
そしていま午前六時半。
空白の六時間。
僕の隣ですやすやと寝息を立てている可愛い女の子。てか、茜。
なっなな、なんで? どうして?
あ、ええっと、ご紹介しておきます。この子は僕の従妹で、名前は箕島茜といいます。この春からピカピカの高校一年生。ご両親が海外転勤になり、女の子の独り暮らしは危ないからということで僕がお目付け役に指名され、先週大阪から首都圏近郊にある僕のアパートの隣の部屋に引っ越してきました。
って、のんびりとですます調でモノローグやってる場合じゃないっ!
そもそも誰に説明してるんだ僕は? だめだ、いかん、混乱が収まらない。
僕はベッドから半身を起こして大きく深呼吸をした。
落ち着け、落ち着け、僕。いいから落ち着け。
頬をつねってみたけれど、もちろん夢じゃない。夢オチであって欲しいけれど、これは現実だ。冒頭から夢オチなんてベタな展開は二十世紀で終わってるんだ。
僕はおそるおそる首をひねって茜の姿を確認した。
僕の方に顔を向けてすやすやとやすらかな寝息を立てている。髪はきれいなボブカットで後ろが少し刈り上げ気味だ。睫毛が長い。鼻筋がすうっと通っていて、唇が小さくて可愛い。う~ん、子供の頃よく一緒に遊んだけれど、こんなに可愛かったっけかこいつ。
違うっ!
見とれている場合じゃないっ、状況把握だ状況把握。
毛布からはみだしている茜の肩口はTシャツ姿だ。ということは裸じゃない。
第一関門突破。
自分の胸に手を当ててみる。昨日着て寝たままのTシャツだ。僕も裸じゃない。
第二関門突破。
腕を伸ばして自分の下半身を点検する。昨日履いて寝たままのジャージ。パンツは……もちろん履いている。
よっしゃあっ、第三関門突破。
いい感じだ。何もない、絶対に何もない。あってたまるかそんなもの。
ふう。少し気が楽になった。
たぶん寂しくなって布団にもぐりこんできただけだろう。何かあったときのために部屋の鍵は渡してあるし、まだ高一なんだから親元を離れてホームシックになるのは充分に有り得る話だ。それなら僕に記憶がないこととも辻褄が合う。多少2D的ではあるが、ありがちな話じゃないか。
全くもう、何を焦ってるんだ僕は。一つ違いとはいえ僕はこいつの親代わりなんだぞ。
はは。ははは。ははははは。
僕は、自嘲気味に空笑いをし、茜を起こさないように気をつけながら、そろそろとベッドから這い出した。
ん?
僕は、ベッドの傍らに落ちている布切れのようなものに気がついた。
なんだろう? 僕は、何気にそれを拾い上げて広げてみた。
パッ、パパパ、パンツっ! それも女の子のっ!
とっ、ととと、ということは……こいつ……。
僕は慌てて茜を振り返った。相変わらず毛布に包まっているので下半身に何を着けているかなんて全くわからない。ただ、形のよいヒップラインがわかるだけだ。うん、大き過ぎず小さ過ぎず、いい形だ。
違うっ! のおっ! ヒップラインなんかどうでもいいっ!
覚えがない。ほんとにほんとに身に覚えがありません。だけどなんでパンツ? いや待てちょっと待て。だけどパンツ。だって僕はいやあのその。え? ええーっ?
焦って後ずさった僕は、ちゃぶ台にふくらはぎをひっかけてしまった。
がちゃん、という音がして、上にあったマグカップが床に落ちた。
その音で、茜が目を覚ました。
「……ん? あ」
茜は寝ぼけ眼をこすり、部屋の中を見渡した。
そして僕の姿を見つけると、一瞬にして目が覚めたのか、がばっと半身を起こした。
「お、おはよっ、ケンボーっ!」
それだけ言うと、茜はみるみるうちに顔が真っ赤になっていった。そして、素早く毛布を引き寄せるとそれで自分の身体をぐるぐるっと覆ってしまった。
な、なんですか? なんなんですか、そのリアクションは?
茜は顔を真っ赤にしたまま僕から視線を逸らして下唇を噛んだ。そして、身体に巻きつけた毛布をぎゅうっと握り締めた。毛布からはみ出した膝から下の素足が悩ましい。その足の指にまで力が入って丸くなるのが見て取れた。
「お、おい、茜……」
「いやっ、こっち見んとってっ!」茜は僕に話す暇を与えず、毛布に包まったまま窓側を向いた。
「か……顔見んとってな。は、恥ずかしいさかい」
え、えと、見るなと言われれば見ません。見ませんが茜さん?
「か、堪忍。……うち、こんなとき、ど、どんなこと言うたらええかわからんよって」
い、いや。いまはどんな時なんですか?
「べ……別に怒っとるんとちゃうで……。ちゅうか、ちょっと……いきなりやったから、お、驚いただけやし」
ちょっと待てっ!
おまえなに言ってるんだ?
てか、何があった? その赤面はなんなんだ?
「……せやけど、お、おとうちゃんおかあちゃんには内緒にしといてな。あ、相手がケンボーやから認めてくれるとは思うんやけど……こんなんバレたら、うち、恥ずかしゅうて親の顔見られへんさかい」
な、何を内緒にするんだ何を?
みみみ、認めるってなんだ?
おおお、親の顔が見られないってどういう意味だ? おい、わかるように説明してくれ。
「どないしたん? そんな顔して」茜が僕の顔を見ながら言った。僕は、たぶん相当引きつった顔をしていたのだろう。
「あ、はは。気にせんといて。別にうち、責任とってなんか言う気……あっ!」
茜は、毛布を身体に巻きつけたままベッドから跳ね起きた。
そして僕のところに駆け寄ると、僕が手にしたままだったパンツを素早くひったくった。
あ。
茜は自分のパンツを抱え、そのまま毛布に包まって恥ずかしそうに部屋の隅にうずくまってしまった。
ぴきっ。
音を立てて僕の中の何かにひびが入った。呆然とするワタシ。いや僕。
「あ、あの、ええんよ別に」茜が蚊の鳴くような声で言った。「ケ、ケンボーにとっては当たり前のことなんやろ。……う、うちは……うちは……あ? あれ? なんでやろ? 涙が勝手に……」
言葉通り、その大きな目には大粒の涙が浮かんできていた。
茜は、毛布から腕を出して指先で涙を拭った。
ぴきぴきっ。
僕の中のひび割れがさらに大きくなった。
「ご……ごめん。堪忍や。な……泣くつもりなんかあらへんねん。ふ……負担になんか思わんとってな。う……うちかて納得してこないなったんやし……。な……なんも泣くこと……」
話しながら茜はどんどん涙声になっていった。
ぱりん。
もうダメだ。僕の中で何かが音を立てて割れた。
僕は、がばっと床に土下座した。
「ごっごめんなさいっ!」僕は、わけがわからずに謝った。
額を床に擦り付けているので茜の表情はわからない。だけどいまは顔色を窺っている場合じゃない。
「あっ、あのっ! ぼ、僕は茜を泣かせたいとかこれっぽっちも思ってないわけで、あ、あの、ごめんなさいっ。許してくださいっ」
だけど、何に対してこんなに必死で謝ってるんだ僕は?
「……え、ええよ。謝らんとって。ふ、普通の人やったら、だ……誰かてしてることやん。た、ただ……うちが初めてやっただけのことやし……」
は、初めて? 初めてってなんだ初めてって?
ま、まさかそれって……。
ありませんっ、僕だってそんな経験ありませんっ。
「あ、あのっ、ごめんなさいごめんなさいっ! あのっ、僕、せ、責任取るからっ」
だけど本当に記憶がない。なぜ? こんなことってあるのだろうか? いや、しかし状況的にこれは。しかし記憶ないぞ。いやしかし謝らなくては。
「『責任』て……ケンボー、無理せんといて。まだ高二やん、『責任』なんかとれるわけないやんか。それに……そんなこと言うんやったらうちにかて『責任』あるんやさかい」
さ、さりげに『責任』という言葉が三回も含まれている。こここ、これは。
「それに……『責任』なんて言い出すんやったら……最初からあんなことして欲しなかったわ」
あああ、あんなことってどんなことですか?
「……うちの心のどっかに隙があったんや、なんもケンボーは悪うないよ。せやから『責任』なんて言わんとって。……従兄妹やゆうて安心しとったうちの『責任』や。ケンボーが何もせえへんと勝手に信頼しとったうちの『責任』なんや。……あほなんはうちや」
あああ、また三回も。
「あのっ。ほんとにごめんっ。僕、責任取るからっ。一生かけても責任取るからっ!」僕は床に頭をこすりつけたまま言った。
「……そんな……そんな口先だけの嘘は……うちはすかん」ひれ伏した頭の向こうから、茜のか細い声が聞こえてきた。
「ほんとにっ。ほんとに責任取るからっ!」僕は頭も上げられず、ひたすら床に頭をこすり付けた。
「……うそつき。昨日の晩かて、何もせえへん言うて……」
そんなこと言ったのか僕? いや、いまはそんなこと考えてる場合じゃない。
「嘘じゃないっ、嘘じゃないからっ。ほんとに責任取るからっ!」
「……ほんまに……ほんまに責任取ってくれるん?」
「取るっ、取りますっ!」
「……絶対?」
「取りますっ。取らせてくださいっ!」
「……ほんまにうちの言うこと、聞いてくれるん?」
「何でも聞かせていただきますっ!」
「……約束、やで」
「誠心誠意、お約束させていただきますっ!」
終わった。
何もかも終わった。
さようなら、僕の青春。
ああ、走馬灯のように僕の半生が通り過ぎていく。
「ぷっ」
頭の向こうで、吹き出す声が聞こえた。
「は?」
僕はおそるおそる顔を上げた。
「ぷぷっ。くっくっく。くくくくっ」
茜が口に手を当てながら顔を真っ赤にして笑いをこらえていた。
えと。あの。
「ぶわあーっはっはっはっ。あかん、もうあかんっ、限界やっ」
そう言うと、茜は床にひっくり返って笑い転げだした。
「ぶわあーはっはっはっ、あかんっ、わあーっはははっ、あっあっ、ひいーっひっひっ、し、死ぬっ、おもろ過ぎて死ぬっ、ぶわあーっはっはっはあ」
茜はお腹を押さえながら床の上をのたうちまわり、脚をばたばたさせた。
えーと。
どういうことですか?
つまり。
そういうことなんですか?
転げまわる茜の身体から、巻きつけていた毛布が解けて床に広がった。
茜はTシャツの下にしっかりと、ぴったりした白いスパッツを履いていた。