side black ~届かなくても構わない~
直接描写は一切ありませんが、BLを匂わせる表現が一部あります。
苦手な方はご注意下さい。
「滝川ぁ、ちょっと今いい?」
特殊保安課のスケジューリングが終わり、一息ついていたときのことだ。
広報課の野原先輩が訪ねてきた。
野原先輩は密かな私の憧れ。真っ黒なベリーショートにアーモンドの目。さばさばしてボーイッシュなのに、女性らしさも残している。
私が男なら、こういう女の子をデレさせてみたいものだ。悶えるほどかわいいに違いない。
「いいですよー。何ですか?」
「これ、見てほしいんだけど」
ぺらり、と野原先輩が出してきた書類を見て、私は噴いた。
「ちょっと! 汚いなぁ」
「だ、だって! これ何ですか!」
先輩の手元にある紙には、スケッチのようなラフ画がある。きっと新しいブロマイドの構図を考えているのだろうとは思ってたけど…。
「あのね、滝川。あんたも知ってるだろうけど、ブロマイド売上が生む利益は、莫大なのよ。より売れるよう改良を重ねることで、より大きな利益を生むの」
「でも…! これ」
ラフ画には、プールサイドらしきところで寝そべる二人の男性が描かれている。一人の男性は背を向けているが天パの筋肉質な身体つき。まぁ、間違いなく赤尾さんだろう。
もう一人が目つきの鋭い短髪の男性。しっかり筋肉はついているようだが、線が細い印象を受ける。
「……黒沢さんは、脱いでくれないと思いますよ」
赤尾さんは自分大好きだし、ファンサービスを至上の喜びとしている人だから頼まなくても脱ぐだろう。
だが、黒沢さんは天晴れなほどストイックで、自分の仕事は自警そのものであるという姿勢を崩さない。社長からしつこく言われるため、あからさまにこそしないが、女性ファンに騒がれるのは大嫌いなのだ。クー寄りのツンがブロマイドのために脱いでくれるとは到底思えない。
冷たい視線と舌打ちで済めば御の字だ。
「そこを頷かせるのが、滝川の仕事でしょ」
「ええぇ?!」
無茶を言わないでいただきたい。
元々私は口下手で、人見知りなんだ。内容はともかく相手が会話をリードしてくれるような場合なら異性相手でも話が続くが、あんなツンツンではとりつくしまもない。
「……ここだけの話、イケメンに囲まれて仕事するグリーンに成り代わりたい頭と尻の軽い女はいっぱいいるの」
「……」
知ってます。知っていますとも。
総務の猪川さんとか、営業の花崎さんとか、秘書課の棚瀬さんのように直接いちゃもんつけにくる人はさすがに少ないが、聞こえよがしな陰口や当て擦りは日常茶飯事だ。
お互いいい大人なので証拠が残るような嫌がらせはない。黙殺できるぎりぎりレベルでの戦いだ。相手とて訴訟や上司への発覚を避けながらの行動はさぞストレスがたまるだろうが、こちらだってその度に『だったらオマエのその仕事と代わってくれよ』と叫びたくなるのを抑えるので必死なのだ。
でもさ。
いくら頭がからっぽでも、ちょっと考えたらわかるだろう。
芸能人並みにイケメンでも、いくら正義感に溢れていても、いい年こいたまともな大人がピタピタのスーツを着て四字熟語の必殺技を決めたいと思うのか?
いくら給料が良くても、こんな仕事に甘んじている時点で、どこかおかしいと思いはしないのか?
仕方ないのかもしれない。
どいつもこいつもアレなのに外面は揃って申し分ないため、社内の人間でさえほとんどが騙されているのだ。
はあ、と知らずにため息が出た。
「私は、私なりにやってるんですけどね」
「知ってるよ、そんなの。あんたがいなくなったら誰もあいつらの面倒見られない、って分かる人はちゃんとわかってる」
でもね、と野原先輩も一つため息をつく。美女がため息をつくと、それはそれはかぐわしい。
「かばえるだけは、私もかばってあげる。でも、要所要所であんたの存在の意義を出しておく方が自分の居場所を守れると思う」
「…はい」
野原先輩の言い分ももっともだ。
HANABUSAの中で一番の稼ぎ頭が特殊保安課だが、一番の金食い虫も特殊保安課なのだ。
一挙手一投足に注目が集まっていることは嫌というほどわかっている。
文字通り身体を張って戦っているメンバーは当然認めてもらっているが、私は別だ。
特殊保安課にいながら、大した仕事をしているようには見てもらえない。
負荷トレーニングをやりすぎて肉離れを起こした阿呆の背中に湿布を貼ったり、ネイルが見えないと戦う気にならないとごねる人のため戦闘用グローブの新デザインを考えたり、萌える技じゃないと嫌だと言う人のため四字熟語を考えたり、いくら頑張ったって一つ一つは本当にしょうもない仕事だ。
…うん、自分で言っていて本当に虚しくなるくらいしょうもない。
がっくりと肩を落とした私に、軽く野原先輩は肘を入れた。
そこには気遣いにあふれた温かさがあった。
顔を上げると、にっこりとアーモンドの瞳が細められる。
「ま、そういうことだから。お色気作戦でも何でもいいから、とにかく説得しといてね」
「おい…っ!」
訂正。
落ち込んでいる暇があったら、ちゃっちゃと動けよってことだったようです…。
◇◇◇◇
「……滝川、どうした」
「……え……何がでしょうか」
「何が、じゃねぇ。さっきから人の顔見てため息つきやがって」
あれからどう黒沢さんに切り出したものか悩んでいたのが、ばれていたらしい。
向かいのデスクに座っていた黒沢さんに、じろりと睨まれる。
ああ、冷ややかな眼差しが痛い。
黒沢さんだって、ファングッズなくして自警システムの維持が難しいことは知っていると思う。何てったってかかるお金が半端ないのだ。
でも、怖い。
脱いで、とか言ったら、目からビームが出そう。
「滝川、お前はグリーンだろ」
突然なんの話だろうか?
目をしばたかせた私に、黒沢さんはひとつ息をついた。
「俺たちが好き勝手戦ってられるのも、戦績を残せるのも、お前がしっかり要になってるからだろ」
「……仕事ですから」
私は会社員。
好き勝手戦う人を諌めるのも、わがままにしか聞こえない改善要求を上にあげるのも、戦いのアセスメントやフィードバックをするのも仕事だからやっているだけだ。
赤尾さんのような正義感も、黒沢さんのような責任感もない。そして、皆と違って現場で危険にさらされることはほとんどない。
ふと、黒沢さんが目を細めた。
「……別に、お前が何を悩んでようと俺には関係ないがな」
「え?」
つい、とそらされた視線にぶっきらぼうな声。
それでもどこからどう見たって、“何を悩んでいるんだ”と心配しているように見えるのはなぜだろう。
まじまじと黒沢さんの横顔を見れば、今度こそ確かに温かい気遣いが見えた気がした。
◇◇◇◇
―――会社の歯車のひとつとして働くことは、時に魂を売るに等しいのかもしれない。
「いやー! でかしたよ、滝川! ランチおごってあげるー!」
「……ありがとうございます」
野原先輩はにこにこで私の手を握ってきたが、全然嬉しくない。
先輩はグルメなので、連れていってくれるお店は大当りばかりだが、今回ばかりはそんな気になれそうもない。
今日のために貸しきった温水プールにはHANABUSA関係者以外に客はいない。
プールサイドには木製のどっしりとしたベンチと南国風の観葉植物。
普段はセレブ御用達のプールということもあり、バーカウンターではハワイアンを着たお姉さんがシェーカーを振っていた。
今日は撮影だけだからバーカウンターは閉めといても良かったんじゃないかと思うが、演出も大切だと野原先輩は鼻息も荒い。
「翠くん! 君も来たのか」
足を滑らせないよう撮影クルーに近づくと、赤尾さんが朗らかな声を上げて微笑みかけてきた。
濃赤の水着を着て、惜しげもなく上半身を晒している。本当にいつ見てもきらきらしくムキムキしい。
「はい……おはようございます。赤尾さん、黒沢さん」
隣のベンチで険しい顔をしながら真っ黒なオーラを出しているのは黒沢さんだ。
黒沢さんは紫紺の水着に、グレーのパーカーを羽織っている。
そりゃそうだよねー、隣の男みたいに無駄に身体を晒す趣味はないよねー、と笑いそうになるが何とか堪えて神妙な顔を作った。
「あの、黒沢さん。すみません。私がうまく断りきれなくて…」
「……別に、いい」
普段射抜くように相手を見据える黒沢さんなのに、こちらをちらりと見たきり目を伏せてしまう。
―――ああ、いたたまれない。
HANABUSAレンジャーと馴れ合うつもりはないけど、嫌われながら仕事はしたくない。自分で線を引いておきながら勝手だけど、やりにくいのは嫌だ。他部署の人に睨まれるのはまだ我慢できるが、保安課の中でまで嫌われるとかムリ。
「あの! 黒沢さんは本意ではないと思いますけど! ……みんな黒沢さんの色々な表情が見たいんです」
その鍛えた腹筋や胸筋に悶える乙女がいる、とは言えない。
“ピン”と呼ばれる一人のブロマイドと、“絡み”と呼ばれる複数被写体のブロマイドでは、売れる枚数が桁違いだとも言えない。その一部分には男性同士がほにゃららする特殊な性癖を愛するファンがいるとも言えない。
気づかれたら、私は終わり。
まじで終わり。
きっと職を失う方がましな目に遭うに違いない。
己の悲惨な末路に、思わず目頭が熱くなった。
なんで私がこんな阿呆な仕事をしなきゃならんのだ。
大学の同期は『課長、まじむかつくー』などと言っているが、こんな汚れの仕事より脂ぎった課長の下で働く方がよっぽどいいんじゃないか。セクハラやパワハラもきっととてもつらいとは思うけど、こんな汚れの仕事も大概だと思う。周りに妬まれるオプションまでついてるし。
ああ、世知辛い。
私結構まじめに生きてきたのに、神様ひどい。
「……らいい」
「…はい?」
神様への怨嗟からあわてて顔を上げた時には、私の手元にふわりと何かが落ちてきた。
ほんのりぬくもりが残る柔らかい手触りのそれは、黒沢さんの着ていたグレーのパーカーだった。
「あ…、いってらっしゃい」
軽く手を挙げた黒沢さんの表情はここからは見えなかった。
◇◇◇◇
「……にしてもさ、何度経験しても緊張感があるよねー」
耳元で野原先輩が囁く。興奮しているのは、己の手がける一大プロジェクトがうまくいっているからか。それとも目の前の半裸にか。
…ここ数日で数年分の“裸”を使った気がする。
「世界の新城カメラマンですからね」
私もひそりとささやき返し、大きな照明に目を細めた。
まばゆい照明のもとには、赤尾さんと黒沢さん。二人に向けて野太い声で奇声を上げるのは、HANABUSAの専属カメラマンだ。
「ああっ! いいわ! もっとこっち! 目線ちょうだいっ」
見た目だけなら五十がらみのおっさんだが、本人によれば中身は永遠の十七歳の乙女らしい。
なにそれキモい、と言うのは簡単だが、このおっさんの腕は半端ない。噂によれば世界各国からオファーが相次ぐほどの鬼才だそうだが、“ディオニューソスがここにいるのにどこへも行けない”とすべて断っているそうだ。
社内の噂によれば、そんな新城カメラマンのあからさまなお誘いを見事なスルースキルで赤尾はかわし続けているらしいが。
そんな赤尾さんは撮影用に普段の三倍(当社比)色気をダダ漏れさせている。
さすが酩酊の神。市中の女性をメロメロにして凶行に走らせるだけはある。
「……すごいわ」
ほう、とため息とともにつぶやく野原先輩の視線の先には黒沢さん。
その冷たい美貌に、しなやかな身体。豹を思わせるような姿に、私まで思わず息を飲んだ。
赤尾さんの身体も見応え抜群だが、黒沢さんも決して負けてはいない。むしろ私的にはあからさまな肉体美より、黒沢さんの方が男らしさを感じる。
今まで黒沢さんは露出のあるブロマイドは撮っていなかったので、これはさぞや売れるだろう。しかも“絡み”だし。
私たちがじっと見ていたのに気づいたらしい黒沢さんと、ふと目があった。
しまった。
恥ずかしい。
違うんです、私は確かに裸を凝視していたんですけどやましい気持ちはそんなになくてですね。
…ああ、だめだ。変な汗が出てきた。
軽く目礼して無理やり微笑んでおくと、黒沢さんは目を伏せた。
「…なんか、赤くなってない?」
「……裸を見られて恥ずかしいんですかね」
アハハ! と笑うと野原先輩は首をかしげつつ、そんなものかなと納得してくれたようだ。
―――断じて認めるわけにはいかない。
私は漫画や小説でよくある『お前のことが好きなんだ』『え? 今なんて言った?』なんてありがちな聞き落しはしない。聴力には問題ないし、聞き違えるような失礼なこともしない。
そして、社内で妬まれまくっているせいで、自分に向けられる好意や悪意には人一倍敏感なのだ。
『お前が喜ぶなら、いい』
そのことばとともに落ちてきたパーカーは畳まれて、私の腕にかかっている。
あのとき、どう反応するのが正解だったのか。
黒沢さんはHANABUSAレンジャーの中で一番まともだと思う。仕事もできるし、ツンツンしているようで気遣いもわりとできるし、格好いい。優しくされればキュンとしてしまうし、付き合ったら大切にしてくれそうだとも思う。
でも、保安課の中でまともというだけで、世間一般ではまともかどうか非常に怪しいと私は思う。
だまし討ちのように入社した私とは違い、レンジャーたちは自薦のみで採用されているらしい。
社長曰く“やる気のない正義のヒーローはいらない”だそうだ。
そして、もし黒沢さんと交際しているなんてバレたら、今までのような生ぬるい嫌がらせでは済まないだろう。世間にはHANABUSAレンジャーの素顔もしっかり知られているため、デートもこそこそ隠れるようにするしかない。
あー、ないない。やっぱない。
平凡な人でいいから、手をつないでデートしたり、公園でお弁当を食べたり、安い居酒屋で枝豆つまんで笑ったりしたい。
その相手はHANABUSAレンジャーでは絶対にできない。ついこの間赤尾さんと外出して思い知った。
聞こえないふり気づかないふりで乗り切るしか、私の社会人生命をつなぐ道はないだろう。
隣に立つ野原先輩に聞こえないよう、深いため息をついた。
わけがわからない。
熱血脳筋もだけど、一体いつ何がきっかけでデレたというのだ。
慇懃無礼で四角四面な面白みのない後方支援員を全力で演じてきたというのに。
ふるり、と首を振る。
最悪、真剣に転職を考えなくてはいけないかもしれないと思うと、ぞっとした。
「……ちょっと、トイレ行ってきます」
「了解。もうすぐ休憩入るから、ついでにバーカウンターに声かけておいてもらえる?」
「わかりました」
時計に目を落とせば、予定の休憩時間よりずいぶん早い。カメラマンがノリにノッているため予定が繰り上がっているようだ。
プールサイドを歩いてバーカウンターまで行くと、きれいな巻き髪をハーフアップにしたお姉さんがにっこり微笑んでくれる。とてつもなく美人というわけではないが、清潔感があるお姉さんだ。
「ご注文でしょうか」
「あ、はい。休憩が繰り上がりそうなので、飲み物を用意していただけますか?」
そうですか、と頷いたお姉さんはベストの胸元に手を入れた。
「では、両手をカウンターへついて下さい。…抵抗しなければ、乱暴はしませんから」
かちゃり、と安全装置が外される音がした。
先ほどまでシェーカーを振っていた手に握られる黒光りする銃に、じわりと汗が出る。
お姉さんは相変わらずにこにことしているが、指ひとつ動かすことさえできないほどの威圧感が毛穴という毛穴に入り込んでくるようだった。
「……お姉さん、プロですね」
そのへんのごろつきとは違う。明らかに、お仕事としてやり慣れている。
無理やり口角を上げて失敗した笑顔を向けた私に、うふふとお姉さんは笑った。
「ええ、ご名答。非戦闘員って聞いてたけど、それなりにできるのね」
「それは…どうも」
動けない以上、通信ピアスも護身用ネックレスも使えない。
早くこの事態に気づいてもらえるよう、少しでも話を引き延ばすしかないか。
「目的はなんですか? あの二人ですか?」
「そうね…。教えてあげてもいいけど、その場合あなたいろいろ失くしちゃうわよ」
いろいろって何が。
命ですか、人間の尊厳ですか。
にこにこと微笑みながら、お姉さんの銃口はしっかりと私の左胸につきつけられている。
「まあ、とにかくゆっくり話ができるところへ行きましょうか」
ぐっ、と押しつけられた銃口で身体がぐらりと後方へ傾いた。
「えっ、わっ…!」
たたらを踏んだはずの右足が、そのまま沈みこむ。
え。まさか。
「空間移動リング?!」
正解、と囁いたお姉さんの笑い声が、闇に響いた。
◇◇◇◇
空間移動リングは、つい数ヵ月前開発されたその名の通り空間を移動するためのリングだ。
自由自在に空間を移動できるものではなく、対になったリングの間を行き来できるというものだったはず。
画期的な開発だが、犯罪に使われる可能性も高く、他国に技術が流れればとんでもないことになる。どこにでも入り放題、機密情報も取り放題だ。
そのため完成したリングのすべては、政府に厳重に管理されていると聞いた。
―――リングを開発したYAMABEにある一対を除いて。
「これは、どういうことでしょうか」
目の前には大きなマホガニーらしきデスク。大きな窓を背に腰かけているのは若い男だ。
「わからないか?」
言いながら立ち上がった男の顔は逆光でよく見えなかった。
何だったっけ。偉い人の机は窓を背にすると、より偉そうに見える効果があるんだっけ。
どうでもいいけど眩しい。
毛足の長い絨毯の上を音もなく男が近づいてくる。
手を伸ばせば触れられる、というところまで来て、男は足を止めた。
高そうなスーツにぴかぴかの靴が嫌味なくらい似合う二十代の美男だった。
―――いや、正確には二十六だったか。
「YAMABEの社長であらせられる山邊夏樹様が一体なんのご用件でしょうか」
私の慇懃無礼な口調に、山邊氏は中性的な美貌を少しだけ歪める。
「僕がどこの誰かはわかっているようだね。空間移動リングにも気づいたようだし、さすがHANABUSAの特殊保安課、といったところかな」
声自体は落ち着いており口調も柔らかだが、後半部分には明らかに嘲笑が含まれていた。
―――私へ、というよりはHANABUSAへの嘲笑だろうな。
元々HANABUSAとYAMABEは兄弟会社のような関係だったという。
それがライバル関係へと変わったのは、前社長の息子である山邊夏樹氏が数年前に社長職に就いてからだと言われている。
うちが先駆けとして開発したヒーロースーツも護身アクセサリーも、一年も経たずにより良い形にしてYAMABEが後発品を出してきている。
もちろんHANABUSAだってやられっぱなしじゃないから、力関係としてはほぼ互角、ちょっとばかりうちが優勢というところか。
「私からは、有益な情報は何も得られませんよ」
私はあくまで特殊保安課の後方支援員だから、開発課のことはほとんどわからない。
出来上がったものの性能はわかるし評価もできるが、再開発のためのプログラミングとなるとさっぱりだ。
ふふ、と山邊氏が妖艶な微笑みを浮かべた。
顎にあてられた指先は白魚のようで、佇まいとあいまって女形のように見える。
「そんなことは、期待していないよ。むしろ君自身に価値があると思っているんだ。HANABUSAレンジャーのグリーン……滝川翠さん」
撫で上げるような声に、肘から二の腕にかけて鳥肌がかけ上がってきた。
どう考えてもヘッドハンティングじゃないよね。そこまで自分に価値があるとは思ってない。
じゃあ一体なんなんだ。
私自身の価値ってなに。
ひりつく喉を動かして、ことばを紡ごうとした瞬間、突然けたたましい異音が鳴り響いた。
ビーッ、ビーッ
緊急事態を知らせるものであろうそれに、山邊氏が笑みを消した。
「ああ、来たようだね」
「来たって…」
『侵入者、Bエリアに到達。戦闘部隊はBエリアおよびAエリアに急行』
耳障りなサイレンの合間に、機械的なアナウンスが繰り返される。
…侵入者って、もしかして赤尾さんか黒沢さん?
私が拐われたことに気づいて追いかけてきてくれたのだろうか。
「予定より早かったな。どうせならもう少し時間をかけたかったところだけど…」
言いながら山邊氏のたおやかな指が私の顎をとらえた。
細く白い指なのに、やはり男性というべきか。ぎっちり捕まれて逃れられない。
そのまま上を向かされ、もう一方の手で目元を撫で擦られた。
「な、なにす…やめ…!!」
―――そのとき。
「滝川から離れろ!!!」
ドォン! という激しい爆発音とともに、漆黒のスーツに身を包んだ黒沢さんが飛び込んできた。
「く、黒沢さ…」
吹き飛ばされたドアの向こうで、私の姿を認めた黒沢さんの瞳が怒りに染まった。
「山邊! てめぇ滝川に何しやがった!!」
「ふふ、やだなぁ。まだ大したことはしていないよ。それにしても…本当に大事なんだねえ、この子が」
愉快そうに喉を鳴らしながら言う山邊氏に、黒沢さんが目に見えて狼狽えた。
「なっ! 違う、俺は別に……」
「あ、そう? じゃあお引き取り願えるかな? うちとしても後方支援ができる人材は欲しいんだ。このままうちの子になってもらうから」
エエー…。
HANABUSAも大概だけど、この人の下で働くのも色々大変そうだ。大体こうやってベタベタ触ってくる奴は性別関係なく好きじゃない。パーソナルスペースは広めに確保しておきたいのだ。
「こういうタイプの子はYAMABEにはいないからね、かわいがってあげる」
うぇえ、またそうやって勝手に触るなよ。手つきが気持ち悪いんだよ。
「……!! 手を離せっ!!」
ガンッ! と堅いものがぶつかり合う音がして私の脇を突風が駆けていった。
慌てて首を巡らせれば、山邊氏が壁際へ叩きつけられている。
「……どうして」
生身の人間相手なのだから、当然手加減はしたはずだ。いくら頭に血がのぼっていても、そのあたりのさじ加減を間違える黒沢さんではない。
それでも、衝撃は大きかったはずだ。
現に絨毯は無惨にえぐれ、壁も剥がれ落ちて辺りには煙が舞い上がっている。
それなのに、山邊氏は涼しい顔で微笑んでいる。
服装こそ乱れてはいるものの、どこにもダメージはなさそうだ。
何だろう。直接触れることはできているから、シールドの類いではないのか?
でもそんな技術あったっけ?
「どう? うちの開発した皮膚密着型のシールドは。ちょっとやそっとの衝撃じゃ僕の身体に擦り傷ひとつつけられない」
試作段階だから、強度は甘いんだけどね。
黒沢さんに肩口を捕まれたまま、軽い口ぶりで山邊氏は言う。
「まあ、HANABUSAレンジャーの攻撃を防いだとあれば、十分かな。……そろそろ離れて」
バチッ、と大きな音がして、黒沢さんが山邊氏から離れた。
いや、はじき飛ばされたというのが正しいか。
山邊氏は戦闘向けのスーツを着ていない。
手に武器らしい武器も持っていない。
でもその手は光っている。まるで電気を纏っているかのようだ。
「ふふ。驚いた? そんな窮屈なスーツに身を押し込んだり、無粋な武器を振り回すのは美しくないと思うんだよね」
いやいやいや。
見た目が悪いから、という理由でそんなもの作っちゃえるってどんだけよ。
「まぁ、そういうわけだから。君じゃ僕には勝てない。HANABUSAはYAMABEの前に膝をつくんだよ」
ぎりり、と黒沢さんが歯を食いしばるのがわかった。
目には見えないのに、明らかにうちの製品よりクオリティの高い武器に防具。
足手まといの人質。
―――でも。
「黒沢さん!! 大丈夫です!!」
何を、と私を見る黒沢さんの瞳は訝しげな色が強く浮かんでいた。
緊張で喉元まで上がってくるような拍動を感じながら、一つ一つゆっくりと唇を動かす。
「HANABUSAレンジャーの力は、想いの強さです。黒沢さんの願いは、強い想いは、絶対にYAMABEの製品より強いはずです」
その気のない四字熟語なら、ベニヤ板さえ破れない。心底の願望をはらめば、破壊できないものはない、とは英社長の口癖だ。
絶対に大丈夫。
「……そうだったな」
微かに頷いた黒沢さんの瞳には、光が戻っていた。
大丈夫、黒沢さんならできる。
「はっ! やってみろ。YAMABEの技術力を見せつけてやる!!」
山邊氏が両腕を突きだし、腕全体に電撃をまとわせた。
「黒沢さん!! やっちゃって下さい!!」
「暗送秋波!!!!」
黒沢さんの叫びと共にバリバリと床板が巻き上がり、横向きの竜巻が真っ直ぐに山邊氏へぶつかる。
難なく受け止めたかのように見えた山邊氏だったが、その瞳が愕然と見開かれた。
「……っ、そんな……」
グラスか何かが割れたような軽い音を立てて、山邊氏の身体からぽろぽろと薄い紗が剥がれ落ちていく。
あれが皮膚密着型のシールドだろうか。
ひとつ拾って帰って開発課に渡したら喜ばれるかな?
「……HANABUSAはYAMABEには負けない。滝川、行くぞ」
いつのまにか腕の拘束も解いてくれていたようだ。肘の辺りを支え、立たせてくれる。
服越しにも黒沢さんの手のひらは熱かった。
YAMABEを出て、スーツを社員証へ戻した黒沢さんはじっとこちらを見てきた。
「……滝川、さっきの技は」
「え?! 何でしたっけ? 動転しててちゃんと聞き取れなかったんですよ。すごい威力でしたね」
アハハ! と笑う自分を撲殺してやりたい。
なんなんだこのやっすい芝居!
伊達に後方支援員として四字熟語に堪能なわけじゃない。聴力にも問題はない。
聞き逃すわけはないのだけど。
認めるわけにはいかないのだ。
「……いや、何でもない」
ぷい、と顔をそむけた黒沢さんの耳は赤い。
夕陽のせいにするほどは日が傾いていないのが残念でならなかった。
暗送秋波
暗に秋波を送る、の意。