第28話:静かな約束、祭りの夜
残暑の名残を孕んだ風が、夜の帳と共に街を包み込んでいた。
仕事帰り、いつものように駅からの道を怜奈さんと連れ立って歩いていると、遠くから微かに、けれど確かな熱を持った笛と太鼓の音が響いてきた。
「……何の音かしら。騒音指数が、普段の帰宅路の平均値を大きく上回っているわ」
怜奈さんは微かに眉を潜め、音のする方角――地元の神社の森へと視線を向けた。
「例大祭ですよ。この界隈では有名なんです。……怜奈さん、少しだけ、寄っていきませんか?」
「祭り? 冗談はやめて。人混みと無計画な屋台の列なんて、非効率の極みだわ。家で静かに、貴方の淹れたお茶を飲む方が、どれほど合理的な休息になるか……」
いつもの「鉄の部長」らしい拒絶。けれど俺は、彼女が独りで戦い、孤独な合理主義に縋っていた頃には決して選ばなかった「無駄な季節」を、今の彼女と共有したかった。
「仕事以外の季節を、一緒に感じたいんです。……今の俺たちなら、そんな遠回りも悪くないと思いませんか?」
俺が真っ直ぐに見つめて問うと、怜奈さんは言葉に詰まったように視線を泳がせ、やがて小さく溜息をついた。
「……貴方は本当に、私の計算を狂わせるのが上手いわね。……いいわ、三十分だけよ」
神社の境内へと続く参道は、数え切れないほどの提灯が揺れ、非日常の朱色に染まっていた。
スーツ姿の俺たちは、仕事帰りの喧騒とは全く異なる、生ぬるい熱気とソースの焦げる香りに包まれる。怜奈さんは、周囲を溢れる家族連れや浴衣姿の若者たちの波に圧倒されたように、呆然と立ち尽くしていた。
「……何年ぶりかしら。こういう場所。……かつての私にとっては、最も縁のない空間だったわ」
彼女が零したその言葉に、胸が締め付けられる。
独りで完璧であろうとした彼女は、こうした「誰かのための祝祭」を、自分の人生から徹底的に排除してきたのだ。
参道が進むにつれ、人混みはさらに激しさを増していった。
四方八方から押し寄せる人の波。怜奈さんの細い肩が、見知らぬ通行人とぶつかりそうになり、彼女は不慣れな人混みに酔ったように、僅かに足元をよろめかせた。
「……っ」
離れてしまう。一瞬の焦燥が俺を突き動かした。
俺は「部長」を守る部下としてではなく、この不器用で愛おしい女性を支える一人の男として、彼女の手を求めていた。
「……怜奈さん、こっちです」
俺は意を決し、彼女の白く細い指先を、逃がさないように力強く握りしめた。
熱を帯びた夜の空気の中で、繋がった手のひらから、言葉よりも饒舌な鼓動が伝わってくる。驚きに目を見開いた彼女の瞳が、提灯の光を反射して、激しく揺れていた。
握りしめた手のひらから、驚くほど熱い体温が伝わってくる。
怜奈さんは一瞬、息を呑んだように硬直したが、振り払おうとはしなかった。それどころか、俺の指を折れそうなほど強く握り返してきた。
「……佐藤君。これ、合理的に考えて……その、はぐれないための、安全措置よね?」
提灯の朱に染まった彼女の頬は、祭り囃子の熱気のせいだけではない赤みを帯びていた。
「ええ。この混雑ですから。……離さないでください、怜奈さん」
「……ええ。貴方に迷子になられたら、私の生活基盤が崩壊するわ。……仕方ないわね」
彼女はそっぽを向きながら、繋いだ手をさらに自分の体の方へと引き寄せた。
仕事の場では決して見せない、42歳の女性としての、縋るような不器用な仕草。俺たちはそのまま、人混みを縫うようにして境内の奥へと進んだ。
屋台の前で立ち止まり、佐藤の勧めで買った、焼き立てのたこ焼き。
「……熱っ。……でも、美味しいわね。プラスチックの容器に入っていない、作りたての、外の空気の味がするわ」
スーツ姿で、串を片手に笑う彼女。独りで完璧であろうとした彼女が、初めて「無駄な時間」を肯定した瞬間だった。
「来年は、もっと空いている時間にリサーチしてから来ましょう。その方が効率的だわ」
「……来年も、一緒に来てくれるんですか?」
俺が問いかけると、彼女はハッとしたように口を噤み、それから蚊の鳴くような声で「……貴方が、私のリソースを管理し続けているなら、の話よ」と付け加えた。
参道を抜け、神社の裏手に回ると、祭りの喧騒が遠ざかり、初秋の涼やかな風が吹き抜けた。
繋いでいた手を離すべき瞬間。けれど、俺たちはどちらからともなく、その指を絡めたまま、しばらく夜空を見上げていた。
「佐藤君。……私、季節というものを、ずっと記号としてしか捉えていなかった。仕事の繁忙期や、冷房の温度設定を変える目安としてだけ」
彼女は自分の手を見つめ、静かに続けた。
「でも、今は……風の匂いや、祭りの音、……そして、こうして伝わる体温で、季節を感じているわ。貴方が来てから、私の世界は、酷く計算しづらくて……心地いいものになった」
「……俺もです。怜奈さんと歩くこの道が、俺にとっての新しい『誠実さ』の形です」
夜の静寂の中、俺たちは小さな声で約束を交わした。
特別な言葉ではない。けれど、来年も、再来年も、この熱気を二人で分かち合うという、静かな、けれど揺るぎない約束。
繋いだ手の温もりを心に刻み、俺たちは自分たちの「清潔な居場所」へと帰っていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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