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後日談 あの日の席
数年後。
そのカフェは、少しだけ内装が変わっていた。
椅子の色も、照明も、前より柔らかい。
でも、窓際の席だけは、そのままだ。
たまたま近くに用事があって、
本当に、ただそれだけで立ち寄った。
メニューを開く。
知らない名前が増えている。
「ご注文は」
若いスタッフ。
初めて会う人。
「コーヒーを」
一瞬迷って、
「……おすすめで」
その言葉が、自然に出たことに、
少しだけ驚く。
運ばれてきたカップから、
立ちのぼる香り。
同じじゃない。
でも、遠くない。
仕事の合間にノートを開く。
昔の自分なら、考えもしなかったことを、
今は、当たり前にやっている。
ふと、視線を上げる。
カウンターの奥で、
オーナーらしき人が笑っていた。
知らない人。
でも、なぜか安心する。
会計を終えて、立ち上がる。
ドアに向かう途中、
窓に映る自分が見えた。
少し大人になった顔。
外に出る。
ベルの音。
振り返らない。
もう、振り返らなくていい。
歩きながら思う。
あの時間があったから、
今の自分がいる。
叶わなかった。
でも、奪われなかった。
人生には、
名前をつけられない出来事がある。
それは、思い出よりも静かで、
後悔よりも温かい。
たまに思い出す。
それで、十分だ。
あの日の席は、
今日も誰かを迎えている。




