第30話 それでも、残るもの
翌朝、少し早く目が覚めた。
理由は、わかっている。
今日で終わる。
その感覚が、身体の奥にあった。
カフェに向かう足取りは、いつも通り。
無理に変えなかった。
最後だからこそ、特別にしたくなかった。
ドアを開ける。
ベルの音。
カウンターの中には、
新しい人だけが立っていた。
彼はいない。
胸が、少しだけ沈む。
でも、それでいいと思った。
会わなければ、
余計なことは起きない。
席に座り、メニューを見る。
いつもと同じ。
「ご注文は」
彼女が聞く。
「コーヒーを」
言いかけて、止まる。
いつもの銘柄が、目に入らない。
「……おすすめで」
彼女は、少し驚いた顔をして、
うなずいた。
コーヒーが運ばれてくる。
丁寧な所作。
もう、完全に店の一部だ。
味は、変わらない。
それが、妙に胸に来た。
飲み終え、席を立つ。
レジに向かう。
会計の途中、
奥から足音がした。
彼だった。
私服。
もう、シフトには入っていない。
一瞬、視線が合う。
逃げ場はない。
「……今日までです」
彼が、先に言った。
「そうなんですね」
声は、落ち着いていた。
「今まで」
少し間を置いてから、
「ありがとうございました」
それは、
仕事の言葉であり、
別れの言葉だった。
「こちらこそ」
わたしも答える。
レジ横の小さなスペース。
二人きり。
ほんの数分。
神さまが、最後にくれた時間。
「元気で」
昨日と同じ言葉を言うつもりだった。
でも、口から出たのは、違った。
「……忘れません」
彼は、少しだけ目を見開いた。
そして、
ゆっくりと、うなずく。
「それで、十分です」
それ以上は、言わない。
言えば、越えてしまう。
ドアに向かう。
ベルの音。
外に出て、
一度だけ、振り返る。
彼は、もうカウンターの奥にいなかった。
それでいい。
帰り道、
胸の奥に、何かが残っているのに気づく。
恋じゃない。
関係でもない。
でも、
確かに存在した時間。
叶わなかった。
それでも、
消えなかった。
神さまのいたずらは、
奇跡を起こすことじゃない。
「なかったことにしない」
それだけを、
そっと残していくことなのかもしれない。




