第29話 余計なこと
彼女が店を出てから、
カフェの空気は、元に戻った。
引き継ぎは続いている。
説明も、確認も、滞りない。
自分でも驚くほど、手は動いていた。
でも、胸の奥が静かじゃない。
「さっきの人」
新しいスタッフが、控えめに聞いてきた。
「常連さんですか?」
「ええ」
短く答える。
それ以上は、言えなかった。
閉店後、片付けを終える。
オーナーは、いつものように奥で帳簿を見ていた。
「おつかれ」
顔を上げずに言う。
「おつかれさまです」
答えながら、手を止める。
少し間があってから、
オーナーが続けた。
「今日、声かけられてたな」
見ていたのか。
否定もしなかった。
「……ええ」
オーナーは、ため息をつく。
「言ったよな。余計なことはするなって」
責める口調じゃない。
でも、鋭い。
「してません」
即答だった。
「本当に?」
オーナーが、こちらを見る。
言葉に詰まる。
していない。
でも、したいと思ってしまった。
「線は、越えてません」
そう言うのが、精一杯だった。
「越えてないなら」
オーナーは言う。
「顔、そんなにならねぇだろ」
図星だった。
しばらく、沈黙。
時計の音が、やけに大きい。
「期限、もうすぐだ」
オーナーが、静かに言う。
「だからこそ、だ」
「……わかってます」
わかっている。
だから、ここにいる。
だから、何も言わない。
それでも、
彼女が最後に言った「元気で」が、
頭から離れない。
あれは、区切りだった。
ちゃんとした、別れの言葉。
それなのに、
自分は何も返せなかった。
「なあ」
オーナーが言う。
「もし、余計なことをするとしたら、いつだ?」
答えは、決まっていた。
「今です」
自分で言って、驚く。
声は、落ち着いていた。
オーナーは、少しだけ笑った。
「そうだろうな」
「……でも」
続ける。
「それは、しません」
「どうして?」
「遅すぎるからです」
彼女には、
彼女の時間がある。
自分の都合で、揺らすべきじゃない。
それが、
ずっと守ってきた線だった。
でも、
守ることで、
何も残らない線もある。
その事実に気づいてしまったことが、
いちばんの誤算だった。




