第28話 思わず呼んだ名前
その日は、すぐに帰るつもりだった。
引き継ぎの様子を見て、
もう十分だと思った。
これ以上、胸をざわつかせる理由はない。
席を立ち、出口に向かう。
あと数歩で、ドアというところで、
足が止まった。
カウンターの向こうで、
彼が何かを説明している。
新しい人が、うなずいている。
もうすぐ、
彼の役割は、完全に終わる。
その光景を見た瞬間、
考えるより先に、声が出た。
「……あの」
自分でも驚くほど、小さな声。
それなのに、彼はすぐに気づいた。
振り返る。
目が合う。
周囲に、人はいる。
でも、この瞬間だけ、
音が消えたように感じた。
「少し、いいですか」
そう言った自分の声は、
震えていなかった。
それが、逆に怖い。
彼は、隣の女性に何かを耳打ちし、
こちらに向かってきた。
数歩の距離。
今までで、いちばん近い。
「どうしましたか」
仕事の声。
でも、目は、仕事のそれじゃない。
「……今日」
言葉を探す。
「もう、引き継ぎ始まってるんですね」
彼は、否定しなかった。
「ええ」
それだけ。
「そうですか」
それ以上、続けるつもりはなかった。
本当は、もっと言いたいことがあるのに。
沈黙が落ちる。
逃げ場のない沈黙。
「何か」
彼が、静かに言う。
「言い残したことが、ありますか」
その一言で、
胸の奥が、決壊しそうになる。
言い残したこと。
そんな言葉で、まとめられる時間じゃなかった。
でも、
ここで何も言わなければ、
本当に終わってしまう。
「……元気で」
ようやく出た言葉が、それだった。
彼は、一瞬だけ、目を伏せた。
そして、ゆっくりとうなずく。
「ありがとうございます」
丁寧な返事。
完璧な距離。
それが、いちばんつらい。
「お世話になりました」
わたしが言うと、
彼は、少しだけ間を置いて答えた。
「こちらこそ」
その声が、
少しだけ低かった気がした。
ドアを押し、外に出る。
ベルの音が、やけに大きく響く。
振り返らなかった。
振り返ったら、きっと、戻ってしまう。
でも、歩き出してから気づく。
――名前、呼んでない。
最後まで、
彼は「彼」のままだった。
それが、正解だったのか、
逃げだったのか、
まだ、わからなかった。




