第21話 知らなかった肩書き
それは、本当に偶然だった。
大学の図書館で、ゼミの資料を探していたとき。
棚の前で、教授と誰かが話しているのが耳に入った。
「今年は、彼に手伝ってもらって助かってるよ」
教授の声だった。
「あの先生のところにいた彼ですよね」
別の教員の声。
足が、止まった。
「そうそう。博士まで取ったのに、カフェ店員」
教授は続ける。
「今は少し、現場を離れてるだけだ」
話題はそれで終わった。
誰のことか、名前は出なかった。
それなのに、
頭の中で、ひとつの顔が浮かんでしまった。
落ち着いた話し方。
就活の話をしたときの、噛み合わなさ。
判断が早くて、迷いのない動き。
全部が、一本の線でつながる。
まさか、と思う。
でも、否定する材料もない。
図書館を出て、しばらく歩く。
心臓の音が、やけに大きい。
博士。
研究。
一時的。
もし、それが本当なら。
彼は「何者でもない人」じゃなかった。
知らなかった。
聞いていない。
でも、知ってしまった。
あのカフェにいた理由。
期限があること。
距離を取ろうとしていた理由。
全部、説明がついてしまう。
カフェの前まで来て、足が止まる。
今日は、入るつもりはなかった。
でも、
このまま知らないふりはできなかった。
ドアを開ける。
ベルが鳴る。
彼が、顔を上げる。
一瞬で、こちらを見て、わずかに目を見開いた。
「いらっしゃいませ」
いつも通りの声。
でも、今日は違う。
わたしのほうが、
もう、前と同じ客じゃなかった。
席につき、コーヒーを待つ。
頭の中で、言葉が渦を巻く。
聞くべきか。
聞かないべきか。
知らないままでいた時間は、もう終わった。
それだけは、はっきりしていた。




