第16話 戻ってくる人
その日は、昼下がりの時間だった。
授業が早く終わり、久しぶりに少しだけ余裕があった。
考える前に、体が動いていた。
気づけば、あのカフェのドアを押している。
店内は静かだった。
いつもの落ち着いた空気。
彼は、カウンターの奥で作業をしている。
視線が合って、軽く会釈をされる。
それだけで、胸が少し緩む自分に気づく。
窓際の席に座り、コーヒーを待つ。
今日は、ノートもスマホも出さなかった。
ただ、ぼんやり過ごすつもりだった。
カウンターの向こうから、会話が聞こえてくる。
オーナーと、別のスタッフらしい。
「奥さん、だいぶ体調戻ったみたいですね」
明るい声。
「ああ」
オーナーの声が続く。
「もうすぐ戻るってさ」
その一言で、空気が変わった気がした。
「じゃあ、あとは引き継ぎですね」
「そうなるな」
会話は、業務的で軽い。
でも、わたしの中では、言葉が重なっていく。
戻る。
引き継ぎ。
もうすぐ。
カップが置かれる音で、はっとする。
彼が目の前に立っていた。
「どうぞ」
いつも通りの声。
でも、今日は少しだけ違って聞こえた。
「……もうすぐ、忙しくなりますね」
思わず、そんなことを言ってしまう。
彼は一瞬、言葉に詰まった。
ほんの一瞬。
でも、見逃せない間だった。
「そうですね」
そう答えて、小さくうなずく。
それ以上、何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
コーヒーを飲みながら、
さっきの会話を反芻する。
彼は、ここに居続ける人じゃない。
それは、もう疑いようがなかった。
帰るころ、レジで会計をする。
彼は、少しだけ視線を下げたまま言った。
「ありがとうございました」
その声が、
今までより、遠く感じた。
外に出ると、空が明るかった。
なのに、胸の奥に影が落ちる。
終わりが近づいている。
そう思った瞬間、
この時間が、急に愛おしくなってしまった。
それが、いちばん困ることだと、
はっきりわかってしまった。




