第10話 聞こえてしまった話
三日ぶりに、あのカフェへ行った。
行かないつもりでいた。
でも、理由を並べるのに疲れてしまった。
行きたいか、行きたくないか。
それだけでいい気がした。
ドアを開けると、いつもより少し賑やかだった。
カウンターの向こうに、彼がいる。
視線は合わなかった。
窓際の席は埋まっていた。
仕方なく、少し奥の席に座る。
ここからは、カウンターがよく見える。
注文をして、ノートを開く。
ペンを走らせながら、会話が耳に入ってきた。
「奥さん、来月には戻れそうだって」
聞き覚えのある声。
オーナーだ。
「そうですか」
彼の声は落ち着いている。
でも、少しだけ低い。
「助かったよ。産休の間だけとはいえ」
その言葉に、手が止まりそうになる。
産休。
間だけ。
会話は続いているのに、
頭の中で、言葉だけが反響する。
間だけ。
期間限定。
期限。
直接聞いたわけじゃない。
こちらに向けられた話でもない。
それなのに、なぜか逃げられない。
視線をノートに落とす。
文字が、にじんで見えた。
だからか。
最近、距離を取られていた理由が、
勝手に形を持ち始める。
いなくなる人だから。
ここに居続ける人じゃないから。
勝手な解釈だとわかっている。
でも、胸の奥が冷える。
カップが置かれる音がして、顔を上げる。
彼が立っていた。
「どうぞ」
いつもと同じ声。
同じ距離。
でも、今日はそのすべてが、少しだけ遠い。
何かを聞きたい気持ちが、喉まで上がる。
でも、何を聞けばいいのかわからない。
「ありがとうございました」
それだけ言って、彼は戻っていった。
帰るころ、外はもう暗かった。
歩きながら、頭の中で言葉を並べる。
期間限定。
それなら、最初から期待しないほうがいい。
そう思う。
でも同時に、
終わりがあると知ってしまったからこそ、
この時間が、急に重くなった気もした。
知らなくていいことを、
知ってしまった気がした夜だった。




