第1話 偶然のカフェ
そのカフェに入ったのは、特別な理由があったわけじゃない。
大学の帰り道、少しだけ時間が空いていて、静かな場所に座りたかった。それだけだった。
いつも通りの店内。
木の匂いと、コーヒーの苦みが混じった空気。
窓際の席が空いていたから、迷わずそこを選んだ。
注文を済ませて、ノートを開く。
課題の続きをやろうとして、ふとカウンターのほうに視線が向いた。
エプロンをつけた男性が、カップを手にしていた。
年上だとは思ったけれど、具体的な年齢はわからない。
動きが少しだけぎこちなくて、カップを置くとき、ほんのわずかに手が震えた。
新人なのかな、と思った。
それとも、こういう仕事に慣れていないだけか。
カップがテーブルに置かれる。
「どうぞ」
低くて落ち着いた声だった。
顔を上げた瞬間、目が合った。
一瞬、言葉が止まった気がした。
でも、彼はすぐに視線を逸らして、次の注文へ向かっていった。
変な人、というわけじゃない。
むしろ、その逆だった。
目立たないのに、なぜか記憶に残る。
ノートに視線を戻そうとして、集中できていないことに気づく。
さっきの手つき、さっきの間。
考えるほどのことじゃないはずなのに、頭から離れなかった。
恋とか、そういう話じゃない。
そもそも、何も始まっていない。
それなのに、
このカフェにまた来る気がしている自分に、少しだけ違和感を覚えた。
ただの偶然。
そう言い聞かせながら、冷めかけたコーヒーを口に運んだ。




