第5話 非西側諸国の思惑
――同日 午後8時(現地時間)ロシア連邦 サンクトペテルブルク とあるレストランにて
風の音が外へ逃げ場なく吹き込むように窓を震わせ、店内の暖かな照明が揺れる。
3人は乾杯のあとしばし料理を味わい、その静けさの中で、スネシュコフ大統領がゆっくりとナイフを置き、話の始まりを告げた。
「……そういえば、地球と月が謎の大転移に見舞われてから、もうすぐ8日が経過しようとしているが。現時点で何か判明したことはあるのかね、ヤコフスキー殿」
ヤコフスキーは姿勢を正し、持っていたフォークを置くと慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「そうですね……まず例の転移についてですが、我々がいる地球と月は、何らかの正体不明の現象によって、未だ観測されたことのない恒星系へ移送された……その説が最有力となっています。実際、我々が打ち上げた宇宙望遠鏡で観測した空は、どの方向を向けても未知の星ばかりでしたし、太陽系にあるはずの火星や木星すら見当たりませんでした」
「火星も木星も見えない……ということは、我々が知っていた太陽系が丸ごと消えた、というわけか」
「厳密には消えたのか、地球だけが移動したのかは不明ですが……はい、その通りです」
スネシュコフはワインのグラスを動かしながら深く考え込む。
「となると、これまで進めていた木星衛星の探査計画は……」
「破棄ということになりますが、実はそうでもないのです」
ヤコフスキーが声のトーンを変えた。
「例の大転移が起きた日から今日までの約1週間の間に、アメリカの宇宙望遠鏡が偶然にも地球より少し離れた位置に、新たな惑星の姿を捉えました。撮影された画像をタブレットに保存してありますが……ご覧になられますか?」
スネシュコフは食べる手を止め、口元をナプキンで拭う。
「ふむ……どの国よりも早く惑星を見つけだそうとするのは、まさにアメリカらしい。宇宙開発の主導権を長きにわたって握ってきただけはある。中国もさらに勢いを増しているとはいえ……まだまだ及ばないだろうな」
「大統領閣下、例の惑星の画像ですが……」
「ああ、すまない。話が逸れてしまった。ぜひ見せてくれ。太陽系外の惑星の直接画像など滅多にお目にかかれない」
ヤコフスキーが急いでタブレットを取り出している間、大統領の瞳は好奇心に揺れていた。
(まさか、本当にそんな惑星が存在するとはな……。もし生命に満ちたファンタジー世界じみた環境なら……いや、さすがに夢物語か)
「お待たせしました。こちらが先週観測された例の惑星の画像の1つです」
タブレットがスネシュコフの前に置かれた瞬間、彼は思わず声に出した。
「ふむ、これは……アメリカが編集で大袈裟に加工したものではないだろうな?」
それほどまでに、画面に映る惑星は地球と区別がつかないほど青と緑に満ち溢れていた。さらにその周囲には、小惑星くらいの小さな2つの衛星が周回している。
「私も最初は疑いました。しかし再度確認したところ、この惑星……HSTE-1と仮称されていますが、実在する可能性は非常に高いです。あれほど地球に似ている以上、生物……いえ、知的生命体が存在していてもおかしくはないでしょう」
スネシュコフは腕を組み、低く唸る。
「……まさか、本当にファンタジーのような惑星が……。しかし、アメリカや中国がこの惑星を巡る宇宙競争で黙っているはずがないだろう?」
タブレットの美しい画像による喜びはすぐに終わり、空気は緊張へと変わった。
「まさにその通りです。アメリカと中国は既に早い段階からHSTE-1に向けた探査計画を始動させています。ただ、両国とも共通して、完全に新規設計した探査機を使う予定で、最速でも打ち上げまで数十か月はかかるでしょう」
「……では、我々に対抗策は?」
スネシュコフの鋭い視線に、ヤコフスキーは一瞬言葉を迷うが、しかし確信をもって答えた。
「あるにはあります。我々は地球と月が転移した影響で、予定されていた金星探査機の打ち上げが中止となりました。その探査機が、今もほぼ完成状態で保管されている状態です。搭載された着陸機と探査機のプログラムを一部改装し、軌道をHSTE-1に向かうよう、軌道計算の修正を施す……こうすることで、最初から設計するより大幅に準備期間を短縮でき、アメリカや中国より先に、HSTE-1に到達できる可能性があります」
「つまり賭けの大きい勝負、というわけか……なるほど」
スネシュコフは小さく笑い、すぐに真顔に戻る。
「これまで火星などの探査ではアメリカや中国に遅れを取っていた。我々が先んじてHSTE-1の周回軌道へ投入できれば……これは大きな一歩となる。成功すれば、世界の宇宙地図を書き換えられるのも容易いだろう」
アンドレーエフが新たな報告書を取り出す。
「それと大統領閣下、まだ転移してから1週間ほど経った頃ではあるものの、既に国際社会が動き始めています。今回の惑星発見を受け、世界各国が深宇宙における領有争いを回避するための、新たな国際条約の提案を模索しているようです」
「南極条約のようなものか?」
「はい。仮称ではありますが深宇宙協定と呼ばれ始めています。軍事利用の禁止、国家による惑星領有の禁止、探査データの全世界への共有義務……そういった枠組みです」
ヤコフスキーは肩をすくめる。
「まあ、所詮建前でしょうね。特に中国は数年以内に新型の再利用型ロケットを完成させ、深宇宙探査網の構築を計画していますし、アメリカはすでにHSTE-1の惑星軌道の研究チームが発足しつつあります」
アンドレーエフが続けて語る。
「インドも急速に動いています。近年のISROの打ち上げ成功率は驚異的で、深宇宙探査のコスト面でも世界有数。米中露が主導権争いをする中で、インドが新たな中心軸として躍り出る可能性も否定出来ないでしょう」
スネシュコフは静かに息を吐いた。
「宇宙は、かつての冷戦時代の頃のように競争の舞台となる……というわけか。だが争いは避けねばならん。深宇宙協定の話も、検討されてる以上は軽んじるわけにもいかないだろう」
ヤコフスキーが頷く。
「それでも、まずは我々がどれだけ早くHSTE-1に到達出来るかが鍵となるでしょう」
その後、3人は食事するのを忘れるほど議論を続けた。
探査目的、打ち上げ予定日、改装可能な機体の候補、予想される国際的反発、そして未知の惑星の環境と文明の可能性にいたるまで。
気づけば料理は冷え、窓に叩きつけるほど強かった風雪も、いつの間にか降り止んでいた。
スネシュコフは最後にワインを口に含み、静かに言った。
「……よし、決めよう。我々ロシアはHSTE-1探査計画を正式に開始する。世界が混乱する今だからこそ、我々が未来を開くためのチャンスが与えられた。これを無駄にしない為にも、よろしく頼むぞ」
アンドレーエフは軽く息を吐き、凍りついた緊張を和らげるようにグラスを揺らした。
「…ところで大統領、HSTE-1の呼称ですが、いずれ公式名称が必要になります。もし今日ここで名前を付けるとしたら、どのような案をお考えです?」
ヤコフスキーもすぐ反応した。
「確かに、記者会見や国際会議でこの名称を使い続けるのは堅苦しすぎる。もっと象徴的で、覚えやすく、しかし我が国の威信を反映した名前が必要だと思います」
スネシュコフはグラスを置き、意外にも楽しげに微笑む。
「では、君たちの案を聞かせてもらおう」
アンドレーエフが最初に口を開いた。
「私はペルセイという名を提案したい。ギリシャ神話の英雄であり、未知へ立ち向かう象徴です。異星探査計画に相応しいかと」
「ふむ、強さと冒険を連想させる名だな」とスネシュコフは頷く。
ヤコフスキーも少し遅れて自身の案を述べた。
「私は、ズヴェズダー・ゼムリーを提案したい。大地の星という意味です。ロシア語に由来しつつも、特徴を捉えていて理解されやすい」
「なるほど。科学的な響きがある」
スネシュコフは2人の案を聞きながら静かにワインを回した。
そして、自分の案を語る番になると、少しだけ姿勢を正す。
「私は、そうだな……アルカディアという名を考えている」
アンドレーエフとヤコフスキーが顔を上げた。
「アルカディア、ですか?」
スネシュコフは視線を窓の外へ向けながら言葉を続ける。
「古代ギリシャの理想郷の名だ。清らかで、争いのない地。人々が自然と調和し穏やかに暮らす、我々の世界ではもはや失われつつある概念だ」
ワインの赤が彼の指先を照らす。
「もし、あの星に知的生命体が存在するか、存在しないとしても……我々人類は初めて、地球とは異なる文明の可能性に触れる。ならば、我々が最初に送る探査計画には、願いを込めた名前が必要だ。理想郷への門出という意味でな」
アンドレーエフは静かに感嘆したように息を漏らした。
「……確かに、単なる技術計画ではなく、人類史の節目に相応しい名ですね」
ヤコフスキーも深く頷いた。
「それに、語感も良い。国際社会も覚えやすい。アルカディア計画……これは宣伝効果も高いかもしれません」
スネシュコフは微笑み、2人を見渡した。
「まあ、正式名称の最終決定は後々決まることだろう。しかし、我々はただ機体を飛ばすだけではない。地球という文明そのものの代表として、未知へ踏み出すのだ。そう考えれば、名前は実に重要だろう?」
3人はしばらく沈黙した。
その沈黙は、単なる思考ではなく、これから自分たちが向かう未来の重さを噛みしめるためのものだった。
やがてアンドレーエフが軽く笑いながら呟く。
「……それにしても、大統領。名前の候補を考えるこの時間が、今日の会議で最も平和だったかもしれませんね」
「確かに。国家予算、国際情勢、軍事的懸念……あらゆる議題が重すぎるからな」
スネシュコフは思わず笑った。だが、その微笑の含まれた決意は、氷が張るように揺るぎなかった。
スネシュコフは立ち上がり、テーブルに残された冷めきった料理を一瞥した。
「我々は、今日から未来を変えるための旗振り役となる。アルカディア計画が正式名称になるかどうかはともかく、歴史はここから動き出す」
アンドレーエフとヤコフスキーも立ち上がり、真剣な眼差しで頷く。
そしてその瞬間、彼ら3人に共通した思いがあった。
この計画は、ただの科学的な探査行為だけでなく、地球という文明が初めて宇宙へ本格的に踏み出すための、小さな前進だと。
雪は止んだものの、夜の空気はまだ鋭く冷えている。
だが、レストランの窓の向こうでは、どこか近い未来に広がる新しい空が微かに揺らめいているように見えた。
やがてスネシュコフが静かに言う。
「さあ、準備を始めよう。歴史は我々を待ってはくれん」
こうして、ロシアの惑星探査計画——そして人類の新たな宇宙時代への第一歩は、この夜を境に、静かに、しかし確実に動き始めたのであった。




