第4話 サンクトペテルブルクでの晩餐
――2036年4月9日 午後7時30分頃(現地時間)ロシア連邦 サンクトペテルブルク とあるレストランにて
モスクワに次ぐロシア第2の都市、サンクトペテルブルク。
この都市は帝政ロシア時代、約2世紀にわたって帝国の首都として繁栄を誇ったが、革命の嵐が吹き荒れた20世紀初頭にその座をモスクワへ譲った。名もまた、時代の波とともに幾度も変転した。ペトログラード、レニングラード、そして今ふたたびサンクトペテルブルクへと移り変わっている。
だが、その名の変遷を経ても、この都市がロシアのもうひとつの顔を表していることに変わりはなかった。
市街地には、金色のドームを頂く大聖堂や帝政時代の宮殿が点在し、その周囲を凍てつくネヴァ川が静かに流れている。対して郊外では、近年になって建ち並び始めた高層ビル群が夜空に光の筋を描き出していた。
歴史と革新。サンクトペテルブルクではその2つがお互いに寄り添い、時に反発し合いながらも、呼吸する都市である。
その中心部、旧市街の石畳に囲まれた一軒の高級レストラン。この夜、店は普段の繁盛とは裏腹にすべて貸し切られており、客はただ1人と静寂な雰囲気を纏っている。レストラン内にある眺めの良い窓際の席にて、静かにナイフを走らせている男の姿があった。
「ふむ……久々にこの街の夜景を眺めながら食べる夕食は格別だな。君たちも食べてみてはどうだ?ここの料理は悪くないぞ」
穏やかに語りかける声に、傍らに立つ2人の護衛が姿勢を正す。
「いえ、大統領閣下。私どもは任務中ですので。どうぞお食事をお楽しみください」
「閣下のお身を守るのが我らの務め。空腹など感じませんとも」
「そうか。まあ、無理をするな。4月とはいえ、まだまだ冷え込みが強い夜だ」
彼らが大統領と呼んだ男、それが第6代ロシア連邦大統領、ゲオルギー・スネシュコフである。
50代半ば、灰色の髪を短く刈り上げ、瞳は氷河のように冷たいが、その奥には確かな情熱が灯っている。
ソ連崩壊後の混乱で衰退した宇宙開発を再び立て直し、ロシアを科学強国として復権させた立役者。それが彼だった。
彼の就任以降、凍結されていた各種探査計画は次々と再開され、国内では彼を称える声も就任して以来、着実に上がっている。
だが同時に、彼は現実主義者でもあった。莫大な資金と労力を要する宇宙事業の再興は、国内経済の好転なくして不可能であり、そのための政治的調整には数え切れぬ敵も伴った。
それでもスネシュコフは怯まなかった。彼にとって宇宙開発とは、今でこそアメリカや中国が主導権を争う場となっているが、ロシアにとってはかつての栄光を象徴する最後の灯なのだ。ソ連の崩壊で奪われた誇りを、再び甦らせるためにも、立ち止まることは許されない。
赤ワインのグラスを傾け、彼はふと窓の外を見た。
大通りを走る車列の灯が川面に反射し、まるで氷の上を流れる火の帯のように見える。4月の上旬なのもあって、雪がちらほらと舞い始めた。
「……地球と月の転移、か」
スネシュコフは咄嗟に呟き、ここ1週間で起きた混乱が脳内によぎる。
突如として太陽系から姿を消した地球と月。通信も途絶し、地球と月以外の人工衛星すら観測不能となった前代未聞の現象。
国民の間には不安が広がり、各国の政府も転移の真相を掴めずにいた。
その渦中でありながらも、スネシュコフはこの晩餐を設定した。形式上は食事会だが、実際には次の一手を決める非公式な会談である。
テーブルに並ぶ料理は、ボルシチ、サーモンのブリヌイ包み、ローストダックのオレンジソース。だが彼の食欲はどれも刺激されなかった。
フォークを置き、ワインを口に含みながら、彼はぼんやりと天井のシャンデリアを見上げる。
(もし我々が本当に別の星系に移されたのだとしたら……)
それは科学者の空想を超えた、まさに天から与えられた試練のような出来事だが、ロシアは幾度も天災と革命を乗り越えてきた。
ならば今回であっても、この異常を生き延び、利用する道を見出さねばならない。彼の心にはそんな確信があった。
ふと、護衛の1人が小声で告げる。
「閣下、副首相閣下とロスコスモス社長が間もなく到着されます」
「そうか。予定通りだな。……それにしても、この時代に、サンクトペテルブルクの夜を舞台に秘密会談を開くことになるとは、まるで昔のスパイ映画のようだな」
スネシュコフは苦笑いをした。だがその目は真に笑っていない。窓の外を吹き抜ける風のように、彼の表情は一瞬で冷えた。
「ロシアは、再び果てにある星を目指すべき時が来たのだよ。だが、そのためには――」
彼の言葉を遮るように、重厚な扉がゆっくりと開く音が響いた。扉から清潔な正装に身を包んだ二人の男が現れ、恭しく礼を取る。
副首相アンドレーエフ。そしてロスコスモス社長、ヤコフスキー。
彼らの顔には、明らかに緊張と期待が入り混じった色が浮かんでいた。スネシュコフは立ち上がり、穏やかな笑みで二人を迎える。
「ようこそ。アンドレーエフ殿にヤコフスキー殿。久々に、ゆっくりと話をしようではないか。この先、我々が練っておくべき宇宙の戦略についてだ」
二人はこくりと頷き、スネシュコフに誘導されながら静かに席に着く。そしてレストランの外では、風が勢いを増し、雪がガラスに叩きつける音が響き始めた。
その音を背に、三人の間に張り詰めた沈黙が流れる。やがてスネシュコフから一声発した後、ワインのグラスが軽く触れ合い、小さな音を立てた。
「それではひとまず、乾杯」




