第九十八話:世界に灯る湯気
ケンとアヤが旅立ってから、数ヶ月が過ぎた。
私たちの街は、レオの静かなる経済戦争によって、依然として厳しい状況にあった。食材の価格は高止まりし、人々の暮らしには目に見えない重圧がのしかかっていた。だが、街の空気は、以前とは明らかに違っていた。希望があった。遠い地で戦う仲間がいるという、温かい希望が、人々の心を支えていたのだ。
最初の報せは、北から届いた。
行商人の一団が、雪深い山脈を越えて、一通の、油紙で厳重に包まれた手紙を届けてくれたのだ。差出人は、一番弟子のケン。
その日の夜、『聖女の厨房』は、臨時休業となった。店のテーブルには、ドルフさん、ケイレブ様、ミーシャ、ゴーク、ジロ、そして残った弟子たちと、街の代表者たちが、固唾をのんで集まっている。私が、震える手で、その手紙の封を切った。
「親方、そして街の皆さんへ」
ケンの、力強く、そして少しだけ大人びた筆跡が、ランプの灯りに照らされる。私は、その手紙を、ゆっくりと読み上げた。
『北の鉱山都市での生活は、想像を絶するほど過酷でした。人々は無口で、よそ者を警戒し、食材は固い干し肉と、芋くらいしかありません。正直、何度も心が折れそうになりました』
その一文に、誰もが息をのむ。
『ですが、親方の「食材の声を聞け」という言葉と、ジロ様が授けてくださった「経典」を頼りに、私は諦めませんでした。鉱山の男たちと酒を酌み交わし、彼らが本当に求める味を探しました。それは、ただ腹を満たすものではなく、凍えた体を芯から温め、明日への活力を与える、力強い一杯でした』
手紙は、彼の発見と創造の物語を、生き生きと綴っていた。
彼は、この土地で狩れる馴鹿に似た獣の骨を、ジロの理論通りに砕き、極寒の中でも腐らないという木の実と共に、長時間煮込んだ。そして、この地方独特の発酵させたベリーを隠し味にした、特製の味噌ダレを合わせたのだという。
『こうして生まれたのが、「馴鹿骨と木の実の濃厚味噌ラーメン」です。今では、仕事終わりの鉱山夫たちが、私の小さな屋台に列を作り、「この一杯のために生きている」と笑ってくれます。親方、私は、支店を作ったのではありません。この街の、新しい家族の食卓を、作ることができました』
手紙の最後には、木炭で描かれたのであろう、粗末な絵が添えられていた。湯気の立つどんぶりを囲み、髭面の鉱山夫たちが、満面の笑みで肩を組んでいる絵だった。
その絵を見た瞬間、ミーシャが、声を上げて泣き出した。その涙は、やがて、その場にいた全員の、温かい笑顔へと伝染していった。
その数週間後。今度は、南の港から、一羽の伝書鳥が、色鮮やかな羽根飾りをつけた手紙を運んできた。アヤからだった。
『莉奈さん!南の港町は、毎日がお祭りのようです!世界中から、見たこともない食材と、人々が集まってきます!』
彼女の、太陽のように明るい文字が、目に飛び込んでくる。
『最初は、あまりに多くの味と香りに、自分が何を作りたいのか、分からなくなってしまいました。ですが、ジロ様の「経典」にあった「味の調和」の理論と、莉奈さんの「誰のために作るのか」という教えを思い出したんです』
アヤは、この港で水揚げされるという、海竜に似た巨大魚の骨から、上品で澄み切った出汁を取った。そして、商人たちが持ち込んだ未知の果実を、ただの飾りではなく、スープの味を引き締めるための、最高のアクセントとして使うことに気づいたのだという。
『こうして完成したのが、「海竜出汁と南国果実の塩ラーメン」です!今では、私の屋台は、肌の色も、話す言葉も違う、世界中の船乗りたちの憩いの場になっています。「故郷の味とは違うが、こいつは俺たちの新しい故郷の味だ」と言ってくれました!』
二通の手紙は、すぐにミーシャの手によって瓦版となり、街中に張り出された。
そのニュースは、街に、革命の時以来の、巨大な熱狂と誇りをもたらした。
私たちのラーメンは、死んでなどいない。それどころか、遠い異国の地で、その土地の文化と融合し、全く新しい、しかし魂は同じ、温かい一杯となって、人々の心を照らしているのだ。
その夜、私は、残った弟子たちと共に、店の屋上から、満天の星空を眺めていた。
「すげえ……ケンさんも、アヤさんも、もう俺たちの手の届かない場所に行っちまったんだな」
一人の弟子が、憧れと、少しの悔しさが混じった声で呟く。
「ううん、そんなことないよ」
私は、微笑んで首を横に振った。
「見て。あの星の一つ一つが、ケンさんやアヤさん、そしてこれから旅立つあなたたちが灯していく、新しい厨房の灯りなんだよ」
レオの冷たい帝国が、一つの巨大な太陽だとしたら、私たちのやり方は、世界中に、無数の、小さくても温かい星々を灯していくこと。
どちらが、夜の闇を本当に照らすことができるのか。
答えは、もうすぐ明らかになる。
私たちの、静かで、そして温かい反撃は、今、始まったばかりなのだ。




