第九十七話:ジロの「経典」
ケンとアヤが、それぞれの未来へ向かって旅立った日の夜。
『聖女の厨房』は、祭りの後のような、寂しさと、そして確かな希望が入り混じった、不思議な空気に包まれていた。残った弟子たちは、いつもより口数少なく、しかし、どこか誇らしげな顔で、厨房の後片付けをしている。二人の仲間が、自分たちの代表として、世界へ旅立ったのだ。その意味の重さを、誰もが感じていた。
「……少し、寂しくなりますね」
ミーシャが、カウンターを拭きながら、ぽつりと呟いた。
私も、静かに頷いた。まるで、二人の子供を、独り立ちさせた親のような気分だった。彼らが、遠い異国の地で、ちゃんとやっていけるだろうか。人々と、うまく打ち解けられるだろうか。私の教えは、本当に、彼らの力になるのだろうか。
不安が、胸をよぎる。
その時だった。
店の裏口が、かすかな音を立てて開いた。そこに立っていたのは、またしても、黒い旅装に身を包んだジロだった。
「……ジロさん」
今夜の彼の来訪は、弟子たちに緊張ではなく、かすかな好奇心をもたらした。彼は、もはやただの敵ではない。私たちの街の、もう一人の偉大な料理人として、誰もがその存在を認めていたからだ。
「感傷に浸っている暇があるのか」
ジロは、相変わらずの冷たい口調で言った。だが、その瞳には、侮蔑の色はなかった。
「お前の弟子たち……あの二人は、確かに才能の片鱗を見せてはいる。だが、お前の教えた『心』とやらだけでは、この冷徹な世界で生き残ることはできん。文化の伝播などという、曖昧な理想論は、現実の前では無力だ」
「では、どうすればいいと?」
私が問い返すと、ジロは、まるで無造作に、しかし、そこに込められた意味の重さを隠すかのように、一冊の、分厚い革張りの本を、私の前のカウンターに置いた。
表紙には、何の飾り気もなく、ただ一言、こう記されている。
【拉麺原理】
「……これは?」
私が戸惑いながらその本を手に取ると、ジロは、少しだけ視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに言った。
「……ただの、知的探求の産物だ。お前のような感傷料理人でも理解できるよう、この世界の食材で応用可能な、ラーメン作りの『原理』を、科学的に体系化しただけのものだ」
私は、ゆっくりと、そのページをめくった。
そして、息をのんだ。
そこに書かれていたのは、レシピではなかった。
スープにおける、グルタミン酸とイノシン酸の相乗効果に関する、詳細な化学式。
麺における、小麦のタンパク質量と加水率が、グルテン形成に与える影響のグラフ。
香味油における、温度変化による香気成分の抽出率のデータ。
それは、私の経験と勘、そして前世の曖昧な記憶を、ジロが、彼の完璧な科学の目で解析し、誰にでも再現可能な「理論」へと昇華させた、一冊の「経典」だった。
「……これを、なぜ……」
「勘違いするな」ジロは、私の言葉を遮った。「私は、お前の非効率な計画が失敗し、私の好敵手がいなくなるのが、つまらないだけだ。お前の弟子たちが、中途半端な模倣品を世界に広め、ラーメンという芸術そのものの価値を貶めるのを、見過ごすわけにはいかん」
それは、彼なりの、最大限の敬意の表し方だった。
彼は、私の「心」を否定しない。だが、その「心」を、世界で通用する本物の「力」にするためには、彼の「技術」という名の骨格が必要だと、教えてくれていたのだ。
私は、その分厚い本の重みを、両手で感じていた。それは、ただの知識の重みではなかった。好敵手の、不器用で、そしてあまりにも温かい、魂の重みだった。
「……ありがとうございます、ジロさん」
私が、心からの感謝を伝えると、彼は「フン」と鼻を鳴らし、踵を返して夜の闇へと消えていった。
翌日、私は残った弟子たち全員を厨房に集めた。
そして、ジロが残していった、その「経典」を、彼らの前に広げた。
「みんな、見て。これは、ジロさんが、私たちのために作ってくれた、新しい教科書です」
弟子たちは、その難解だが、しかし美しく体系化された理論の数々に、目を輝かせた。
「すげえ……!親方の教えの、理由が、全部ここに書いてある!」
「これがあれば、どんな知らない土地の、知らない食材を前にしても、俺たちは、最高のラーメンを作れるかもしれない……!」
私の「心」と、ジロの「技術」。
二つの魂が、今、この厨房で一つになった。
旅立ったケンとアヤ、そして、これから旅立つであろう全ての弟子たちの手には、最強の武器が握らされたのだ。
レオの冷たい帝国に対抗するための、私たちの温かい文化の、本当の戦いが、ここから始まる。




