第九十五話:莉奈の逆転策
契約書の破片が床に散らばる会議室。レオが放った「市場の力で根絶やしにする」という言葉は、呪いのように重く、私たちの心にのしかかっていた。
その夜、『聖女の厨房』の厨房は、この街で最も重苦しい空気に満ちた、作戦司令室と化していた。テーブルを囲むのは、私、ドルフさん、ミーシャ、ケイレブ様、そして、いつの間にか当然のようにそこにいる、ジロ。
「……打つ手は、あるのか」
最初に沈黙を破ったのは、ドルフさんだった。その声には、珍しく、弱音に近い響きが混じっていた。
「奴の武器は、金と、あの鉄の船だ。俺たちが誇るギルドの戦士も、騎士団も、海の向こうまでは届かねえ。奴が本気で、世界中の港にあの魂のねえラーメンをばら撒き始めたら……俺たちに、それを止める術はねえ」
ミーシャも、青ざめた顔で頷いた。
「財政的にも、勝ち目はありません。私たちの全財産をかき集めても、四海通商連合の資本力は、その何千倍、何万倍でしょう。価格競争を仕掛けられたら、一瞬で……」
それは、完全な「詰み」の状況だった。
レオは、世界という広大な盤上で、私たちをこの街という一点に封じ込め、外側からゆっくりと包囲し、干上がらせようとしている。私たちが誇るラーメンの味も、人々の絆も、海を越える資本という名の津波の前では、あまりにも無力だった。
「奴は、ブランドを確立する気だ」ジロが、冷徹に分析する。「世界中の人間が、最初に口にするラーメンが、奴の作る、規格化された『SEIJO RAMEN』になる。そうなれば、後から本物が現れたところで、人々はそれを『模倣品』としか認識しないだろう。文化の、完全なる上書き。焦土作戦だ」
絶望的な言葉が、次々とテーブルの上に積み重なっていく。誰もが、下を向いた。
私も、唇を噛み締めていた。悔しい。腹立たしい。だが、それ以上に、私の心の中には、別の感情が渦巻いていた。
私は、厨房の片隅で、不安そうに私たちの会話を聞いている、弟子たちの顔を見た。一番弟子のケン。野菜の切り方を教えた、若い娘。彼らは、私のラーメンを、私の魂を、受け継ごうと必死に努力してくれている。
彼らの未来を、このまま、レオの数字の論理に、踏み潰させていいのか。
(ブランド……規格化……商品……)
レオの使う、あの冷たい言葉たちが、私の頭の中で反響する。
そうだ。彼は、私のラーメンを、一つの巨大な「ブランド」として、世界に広めようとしている。一つの、管理され、規格化された商品を。
ならば。
もし、私たちが、ブランドで戦うことを、やめたとしたら?
「……一つだけ」
私の、か細い、しかし確信に満ちた声が、重い沈黙を破った。
全員の視線が、私に集まる。
「一つだけ、彼には決して真似のできない、私たちの逆転策が、あります」
私は、ゆっくりと立ち上がった。そして、不安そうな顔の弟子たち、ケンたちの前に立つ。
「レオ様は、世界中に、一つの『SEIJO RAMEN』を作ろうとしています。誰が作っても同じ味になる、完璧な商品を」
私は、一度言葉を切り、仲間たちの顔を見渡した。
「ならば、私たちは、世界中に、百の、千の、全く違うラーメンを、生み出せばいい」
「……どういうことだ?」ドルフさんが、訝しげに尋ねる。
私は、ケンの肩に、そっと手を置いた。
「ブランドで戦えないなら、文化そのものを、広めればいいんです」
私の言葉に、ミーシャの目が、そしてジロの目が、ハッと見開かれた。
「私たちは、支店を作りません。フランチャイズも作りません。その代わり」
私は、弟子たちの顔を一人一人見つめながら、宣言した。
「あなたたちを、世界中へ、旅立たせます」
「旅立つ目的は、私のラーメンを売るためではありません。その土地へ赴き、その土地で採れる最高の食材を見つけ、その土地の人々と一緒に、彼らのための、全く新しい『ご当地ラーメン』を作るんです」
それは、レオのビジネスモデルとは、正反対の発想だった。
中央集権的な支配ではない。種を蒔き、それぞれの土地で、自然に芽吹かせる、文化の伝播。
規格化された商品が一つあるよりも、世界中に、百の、温かいラーメンの食卓が生まれた方が、ずっと強い。ずっと、豊かだ。
「……そんなこと」ケンが、呆然と呟く。「俺たちに、できるでしょうか」
「できるよ」私は、力強く頷いた。「あなたたちは、もう、私のラーメンの魂を、確かに受け継いでくれているから」
厨房に、希望の光が差し込んだ。
それは、資本の論理を、文化の力で覆す、あまりにも大胆で、そして、私たちにしかできない、唯一の反撃の煙だった。




