第九十四話:決裂
最後の交渉の日は、嵐の前の静けさのように、穏やかな朝だった。
だが、会議棟に集った円卓会議の代表者たちの顔には、鋼のような、そして悲壮なまでの決意が浮かんでいた。もう、レオの言葉に惑わされる者は一人もいない。私たちの街の魂と未来を賭けた、最後の戦いの舞台だった。
レオは、約束の時刻通りに、法務魔術師団だけを伴って現れた。その表情には、勝利を確信した王の、揺るぎない余裕が浮かんでいる。
「さて、議長殿」彼は、議長席のドルフさんに、まるで最終勧告を突きつけるかのように言った。「賢明な答えを、聞かせていただけるかな?」
ドルフさんは、何も答えなかった。ただ、静かにミーシャに視線を送る。
ミーシャは、立ち上がると、震える手で、しかし、その声はどこまでも澄み切っていた。
「レオナルド様。私たちは、あなたの契約書を、隅から隅まで、拝読させていただきました」
彼女は、テーブルの中央に置かれた契約書の、最後のページを指し示した。
「そして、そこに隠されていた、あなたの真の『野望』も」
ミーシャが、極小の魔法文字で書かれた追記事項の内容を、一言一句、はっきりと読み上げる。
「『……本自治区で将来的に生み出される、全ての「旨味」を伴う食文化……その商業的権利は、永久に乙に帰属するものとする』」
その言葉に、レオの目が、初めて、わずかに細められた。
「これが、あなたの言う『パートナーシップ』ですか」ミーシャは、続けた。「これは、友好などではない。私たちの未来を、根こそぎ奪い去る、文化の奴隷契約です」
レオは、数秒の沈黙の後、肩をすくめると、ついにその紳士的な仮面を脱ぎ捨てた。
「……見つけたか。なるほど、君のことは、少々、見くびっていたようだ、ミーシャ殿」
彼の声には、もはや一片の友好もなかった。ただ、全てを見下す、冷徹な支配者の響きだけがあった。
「だが、それがどうした?君たちに、この契約を拒否する選択肢など、残されているのかね?君たちの厨房は、私の経済網によって、すでに干上がりかけている。民衆は、いずれ飢え、私の作る安価な模倣品にひれ伏すだろう。君たちの誇りなど、空腹の前では無力だ」
それは、紛れもない、最後通告だった。
だが、その言葉を聞いても、ドルフさんは動じなかった。彼は、ゆっくりと立ち上がると、テーブルの上の契約書を、その巨大な手で掴み取った。
「……てめえは、一つ、大きな間違いを犯したぜ、レオナルド」
ドルフさんの声は、地獄の底から響くように、低く、そして怒りに満ちていた。
「俺たちの魂は、金貨百万枚なんざで売り買いできるほど、安っぽくねえんだよ!」
ビリビリビリッ!
ドルフさんは、その契約書を、街の全ての民の怒りを込めて、真っ二つに引き裂いた。そして、その破片を、呆然とするレオの足元に叩きつけた。
「交渉は、決裂だ」
ドルフさんは、言い放った。
「とっとと、てめえの鉄の船に帰って、おとぎ話の世界にでも帰りやがれ。この街の食卓は、俺たちが守る!」
レオの顔から、完全に表情が消えた。彼のプライドは、生まれて初めて、これほど無残に、そして真正面から踏みにじられたのだ。
彼は、しばらく、足元の紙切れを無言で見下ろしていたが、やがて、静かに顔を上げた。その瞳には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。ただ、全てを破壊し尽くす、無機質な嵐の前の静けさだけがあった。
「……いいだろう」
彼の声は、冬の風のように冷たかった。
「ならば、市場の力で、君たちのその陳腐な文化を、根絶やしにするまでだ。君たちが誇るその『温もり』とやらが、私の『資本』の前で、どれほど無力か、その身をもって知るがいい」
レオはそれだけを言うと、踵を返し、議場を去っていった。
後に残されたのは、破り捨てられた契約書と、街の存亡を賭けた、全面戦争の始まりを告げる、重い、重い沈黙だった。




