第九十三話:契約の最終条項
ケイレブ様の調査報告がもたらした衝撃的な真実は、作戦室の空気を氷のように凍りつかせた。レオナルド・デ・ロッシは、ただの強欲な商人ではない。文化そのものを喰らい、商品として陳列する、異世界の捕食者。そして、そのコレクションリストの筆頭に、私のラーメンは、金貨百万枚の値札を付けられていた。
「……ミーシャ」
沈黙を破ったのは、私の静かな声だった。
「契約書の、あの条項を、もう一度見せて」
私の言葉に、ミーシャはハッとして、震える手で机の上の契約書を広げた。第一条、『知的財産権の永久譲渡』。私たちは、この一文だけで十分すぎるほどの脅威を感じていた。だが、ジロの警告が、私の頭の中で鳴り響いていた。
『悪魔は、いつだって細部に宿る』と。
「……ですが、莉奈さん」ミーシャは、悔しそうに言った。「この契約書は、隅から隅まで、もう何十回も読み返しました。この第一条以上に、私たちを縛る危険な条項は……見つけられませんでした」
彼女の言う通りだった。他の条文は、どれも四海通商連合の商業法に則った、一見すれば公正な取引内容に見える。
その時だった。これまで黙って壁に寄りかかっていたジロが、静かに口を開いた。
「小娘。お前は、契約書のどこを読んでいる?」
「え……?もちろん、条文の一つ一つを……」
「だから素人だと言うんだ」ジロは、ため息をつくと、テーブルへと歩み寄った。「悪魔は、本文には潜んでいない。奴らが身を隠すのは、いつだって、誰もが読み飛ばすような、最後のページ。署名欄の、そのさらに下。おまけのように書き加えられた、細則や追記の中だ」
彼の言葉に、ミーシャは息をのんだ。彼女は、慌てて契約書の最後のページをめくった。そこには、荘厳な署名欄と、連合の印章が押されているだけに見えた。
「……何も、ありません。ただ、連合の紋章が……」
「よく見ろ」ジロは、自分の懐から、錬金術師が作ったであろう、レンズの分厚い携帯用の分析魔道具を取り出した。「ただの目で見るな。魂で見ろ」
ミーシャは、ジロからスコープを受け取ると、言われた通り、契約書の最後の、紋章が押された下の、空白にしか見えない部分にレンズを向けた。
そして、彼女は、小さな悲鳴を上げた。
「……あ……!」
スコープの魔法のレンズを通して見ると、そこには、肉眼では到底判読不可能なほど、極小の、そして魔法によって意図的にインクが薄められた、古代の魔法文字が、びっしりと書き込まれていたのだ。
「な、なんだ、こりゃあ……!」
ドルフさんが、テーブルに身を乗り出す。
ミーシャは、スコープを覗き込みながら、震える声で、その悪魔の囁きを、一言、一言、読み上げていった。
「……『追記事項:本契約における知的財産権の譲渡対象は、料理「ラーメン」のレシピに限定されるものではない。甲(聖女リナ)がその知識の源泉とする「古代文明」に由来し、本自治区で将来的に生み出される、全ての「旨味」を伴う食文化……その概念、および派生する全ての商業的権利は、本契約の締結を以て、永久に乙(四海通商連合)に帰属するものとする』……」
読み終えたミーシャの顔から、血の気が完全に引いていた。
作戦室は、死そのもののような静寂に包まれた。
レオの真の狙い。
それは、私のラーメンではなかった。
私がこの世界にもたらした、「旨味」という文化、そのものだった。
この契約書にサインをした瞬間、この街で生まれる新しい料理、新しい調味料、その全てが、永久に彼のものとなる。私たちの街は、彼の文化的な奴隷となるのだ。
私たちの未来は、根こそぎ奪われる。
「……あの、クソ野郎が……ッ!!」
静寂を破ったのは、ドルフさんの、地獄の底から響くような、怒りの声だった。彼は、側にあった椅子を、壁に叩きつけて粉々に砕いた。
ケイレブ様は、無言で剣を抜き放ち、その切っ先は、まるでレオの喉元を狙うかのように、静かに、そして鋭く光っていた。
もう、交渉の余地など、どこにもなかった。
これは、ビジネスではない。私たちの魂と、未来を賭けた、戦争だ。
私は、静かに立ち上がった。
私の瞳には、もう涙も、迷いもなかった。
ただ、この街の全てを守ると誓う、聖女としての、そして一人の料理人としての、燃え盛るような、決意の炎だけが宿っていた。




