第九十一話:民衆の違和感
レオの経済戦争は、冷たい雨のように、じわじわと街の熱を奪っていった。食材の高騰は庶民の台所を直撃し、日々の食事から彩りが失われていく。その乾いた喉を潤すかのように、四海通商連合が無料で配る「試作品ラーメン」は、当初、多くの人々に受け入れられた。背に腹は代えられない。空腹は、何より雄弁な説得者だったからだ。
研究厨房から流れ作業で生み出される、寸分違わぬ姿のラーメン。それを受け取る人々の列には、しかし、かつての『聖女の厨房』の前にあったような、期待に満ちた笑顔はなかった。誰もが、生活のために、ただ黙々と、その日の糧を受け取っていく。
その日、市場からの帰り道、一人の母親が幼い息子を連れて、その列に並んでいた。彼女の買い物かごは、高騰した野菜のせいで、いつもよりずっと寂しい。
「ほら、今日は聖女様のに似たラーメンがもらえるわよ」
母親の言葉に、しかし息子は浮かない顔をしていた。
やがて、二人は家の食卓で、その魂なき模倣品に向き合った。息子は、レンゲでスープを一口すすると、不思議そうに首を傾げた。
「……お母さん。これ、味がするね」
「ええ、そうよ。美味しいでしょう?」
「ううん」少年は、ゆっくりと首を横に振った。「味がするだけ。……心が、ぽかぽかしない」
その、子供の素朴な一言が、真理だった。
街のあちこちで、同じような違和感が、さざ波のように広がっていた。人々は、腹を満たしながらも、心の中に広がる奇妙な空虚感に、戸惑い始めていたのだ。食卓から、会話が消えた。美味しいものを食べた時に自然とこぼれる、あの温かい笑顔が、街から失われていた。
その空気に、最も早く、そして最も鋭敏に気づいたのは、ミーシャだった。
彼女は、店の窓から、レオのラーメンを無表情ですする人々の姿を見て、唇を固く結んだ。
(ダメだ……このままでは、街の魂が、本当に死んでしまう)
レオの武器が「資本」なら、こちらの武器は「記憶」と「物語」だ。彼女は、再び印刷所へと走った。
翌朝、街の掲示板や壁に、新しい瓦版が張り出された。それは、以前のものとは少し趣が違っていた。
【一杯のラーメンは、何を語るのか?】
その見出しの下には、二つのラーメンの絵が並べて描かれていた。一つは、湯気が立ち上る、見慣れた温かいラーメン。もう一つは、どこか無機質で、冷たいラーメン。
『ある一杯には、畑で汗を流した農夫の土の匂いがします。危険な森へ分け入った冒険者の勇気の味がします。厨房で響き合う、仲間たちの笑い声が聞こえます』
『そして、もう一杯には、完璧に計算された数字の味がします。効率化された作業の音がします。魂を揺さぶる物語は、そこにはありません』
瓦版は、レオの名を一切出さなかった。ただ、静かに、人々の心に問いかけていた。
『あなたの心を満たすのは、どちらですか?』
その瓦版は、劇的な効果をもたらした。人々は、それを読み、自分たちが感じていた違和感の正体に、はっきりと気づいたのだ。
「そうだ……俺たちが食いたかったのは、ただの腹を満たす餌じゃねえ!」
「あのラーメンには、莉奈さんの『ありがとう』が聞こえねえんだ!」
その日から、研究厨房の前にできていた行列は、目に見えて短くなっていった。人々は、少し高くても、市場で野菜を買い、質素でも、家族で食卓を囲んで笑い合うことを選んだ。魂のない満腹よりも、温かい心の繋がりを選んだのだ。
その報告を受けたレオは、初めて、その端正な顔に苛立ちの色を浮かべたという。
「……非合理的な。感傷に、これほどの力があるというのか」
その頃、『聖女の厨房』では、弟子であるケンが、私の前に深く頭を下げていた。その手には、レオから渡された、あの金貨の袋があった。
「親方……俺は、馬鹿でした。親方のラーメンの魂を、金で広めようなんて……。どうか、俺を……!」
私は、彼の言葉を遮るように、その手を優しく握った。
「ありがとう、ケン。戻ってきてくれて。……さあ、厨房が待ってる。最高のラーメンを、作ろう」
街の心が、一つに戻り始めていた。
だが、レオという男が、このまま静かに引き下がるはずがない。
民衆の心が離れたと知った時、より冷徹な支配者は、さらに非情な次の一手を打つものだ。そのための調査が、ケイレブ様の手によって、静かに進められていることを、私たちはまだ知らなかった。




