第八十七話:魂なき模倣品
ジロの警告が、冷たい警鐘のように私の頭の中で鳴り響く中、私は夜明けを待たずして、ミーシャの元へと駆け込んだ。店の二階にある彼女の小さな事務所は、いつも帳簿とインクの匂いに満ちている、私たちの砦の司令室だ。
「ミーシャさん、お願いがあるの」
私は、レオから渡された、あの美しくも不吉な契約書を、彼女の机に置いた。
「この契約書を、隅から隅まで、一言一句、調べてほしい。きっと、何か、私たちが知らない言葉の罠が隠されているはずだから」
ミーシャは、私のただならぬ様子と、ジロからの警告があったという事実を察すると、その表情を経営者のものへと引き締めた。
「……承知しました。私の知識と人脈の全てを使い、この契約書の正体を暴いてみせます」
彼女は、分厚い王国の商業法典を本棚から引き出すと、ランプの灯りの下、その難解な古文書との戦いを開始した。
そして、ジロの警告は、私が想像していたよりも、ずっと速く、そして残酷な形で現実のものとなった。
ミーシャが契約書の解読を始めてから、わずか三日後。
街の中央広場、私の店の真向かいに、一夜にして巨大な天幕が設営されたのだ。その入り口には、『四海通商連合・ラーメン研究厨房』という、無機質な看板が掲げられていた。
天幕の中の光景は、異様だった。
そこには、料理人の姿は一人もいない。代わりに、白衣を着た錬金術師たちが、フラスコやビーカーを手に、液体の調合を繰り返している。魔術師たちが、水晶のパネルを操作し、スープの成分を分析している。厨房というより、それは「工場」だった。
そして、その日の昼時。レオは、街中に向かって、高らかに宣言した。
「我が四海通商連合は、聖女殿の素晴らしい文化に敬意を表し、その味を、より多くの人々が、より手軽に楽しめるよう、最新の技術を用いて再現することに成功した!本日、この『試作品』を、日頃の感謝を込めて、街の皆様に無料で振る舞わせていただこう!」
無料―――その言葉に、街の人々はどよめいた。
研究厨房の前には、瞬く間に長蛇の列ができた。物珍しさと、タダで食事ができるという魅力には、誰も抗えない。
やがて、錬金術師たちの手によって、次々とラーメンが作り出されていく。その見た目は、驚くほど、私の醤油ラーメンに似ていた。琥珀色のスープ、細麺、そしてチャーシューに似せた加工肉。
列に並んでいた、ギルドの若い冒険者が、最初の一杯を受け取った。
「おおっ!見た目は、聖女様のラーメンそっくりだぜ!」
彼は、期待に胸を膨らませ、そのスープを一口すする。
そして、その顔から、表情が消えた。
「……ん?」
彼は、首を傾げながら、もう一口、そして麺をすする。周りの人々も、次々とその「試作品」を口にしては、同じように、困惑した、不思議な顔をしていた。
「……どうだい、兄さん。味は」
別の冒険者が尋ねる。
「いや……味は、するんだ。ちゃんと、醤油と、鶏の味がする。美味いか、不味いかで言えば、まあ、不味くはねえ。だが……」
彼は、言葉を探すように、自分の椀の中を見つめた。
「……なんだろうな。腹は膨れるんだ。確かに。だが、心が、全く、満たされねえんだ」
その言葉こそが、全てだった。
レオのラーメンは、私のスープの味の構成要素―――塩分、糖分、アミノ酸―――を、化学的に完璧に再現した、魂のない模倣品だったのだ。そこには、私が込めた温もりも、食材が持つ生命力も、食べる人を想う心も、何一つ存在しなかった。ただ、腹を満たすためだけの、味のする液体。
その日の午後、店の窓から、その光景を見ていた私の元に、ミーシャが血の気の引いた顔で駆け込んできた。
「莉奈さん……見つけました。契約書の、第一条に……」
彼女が指さした羊皮紙には、美しい装飾文字で、こう書かれていた。
『本契約の締結を以て、ラーメンの基本レシピに関する全ての知的財産権は、甲(聖女リナ)から、乙(四海通商連合)に、永久に譲渡されるものとする』
「……これが、意味するところ、分かりますか?」
ミーシャの声は、震えていた。
「もし、私たちがこの契約書にサインをしたら……莉奈さん、あなたは、自分のラーメンを、『他人のもの』として作ることになるんです。そして、レオ様の作る、あの魂のないラーメンこそが、『本物』として、世界中に広まっていく……」
私は、ミーシャの手から、そっと契約書を受け取った。
そして、窓の外で、人々が、何も知らずに、私のラーメンの抜け殻をすすっている光景を、静かに見つめた。
これは、私のラーメンじゃない。
私の魂を、私の物語を、奪わせはしない。
私の心の中で、静かだが、しかし決して消えることのない、闘志の炎が、再び燃え上がった。




