第八十六話:ジロの警告
その夜、私は一人、火を落とした厨房で、静かに寸胴鍋を磨いていた。レオが残していった「製品」という言葉が、まるで冷たい鎖のように私の思考に絡みつき、離れない。あの温かい湯気さえもが、彼の言葉を思い出すたびに、無機質な煙に見えてしまう。
街の皆を笑顔にするはずの私のラーメンが、ただの「商材」として値踏みされる。その屈辱と、得体の知れない恐怖に、私はただ黙々と手を動かすことしかできなかった。
その時だった。
店の裏口が、音もなく、かすかに開いた。ゴークが見張りをしているはず。侵入者とは思えない、静かな気配。
そこに立っていたのは、予想だにしない人物だった。
「……ジロさん」
彼は、いつもの純白の調理衣ではなかった。夜の闇に溶け込むような、黒を基調とした簡素な服を身にまとっている。その姿は、高名な料理人というより、影に生きる密偵のようだった。彼の表情は、建国祭の夜に見せた穏やかさとは程遠い、鋼のような険しさに満ちていた。
「昼間の男が、ここに来たそうだな」
ジロは、挨拶もなしに、低い声で切り出した。
私は、彼の突然の来訪と、そのただならぬ雰囲気に戸惑いながらも、頷いた。
「……ええ。一杯、食べていきました」
「もし、あなたが笑いに来たのだとしたら、生憎、私はそんな気分じゃ……」
「笑うだと?」ジロは、私の言葉を遮った。その瞳には、侮蔑ではなく、むしろ苛立ちに近い色が浮かんでいた。「愚か者め。私は、お前に警告しに来たんだ」
警告?ライバルである、この私に?
私が言葉を失っていると、ジロは、まるで忌まわしいものでも思い出すかのように、静かに語り始めた。
「あの男、レオナルド・デ・ロッシ……。奴の目は、私と同じ目をしている。―――私たちが、この世界に来る前の、あの世界の目をな」
その言葉に、私はハッとした。前世の記憶。私が、この世界でようやく忘れかけていた、冷たい世界の記憶。
「お前は、まだ分かっていない。奴がやろうとしていることの、本当の恐ろしさを」
ジロは、私の厨房をゆっくりと見渡した。
「お前の作るラーメンは、温かい。それは認めよう。だが、その温かさは、奴の前ではあまりにも無力だ。奴は、味や魂で戦う人間ではない。奴の武器は、紙切れ一枚だ」
「……契約書、ですか」
「そうだ」ジロは、私の隣に立つと、火の消えた寸胴を睨みつけた。「円卓会議の連中に見せびらかした幻影など、ただの客寄せだ。問題は、あの契約書の中身にある。お前は、読んだのか?」
「いえ、まだ……ミーシャが、今調べているところです」
その答えに、ジロは心底呆れたように、舌打ちをした。
「お前は、自分の魂を売り渡す契約書に、目も通さずにいるというのか。いいか、よく聞け。奴の世界では、契約こそが全てだ。そこには『知的財産権』『独占ライセンス』『競業避止義務』……お前たちが聞いたこともないような、言葉の罠が無数に仕掛けられている」
彼は、前世の世界では当たり前だった、冷徹なビジネスの現実を、私に突きつけた。
「奴は、お前のラーメンを売るだけじゃない。お前のラーメンという『アイデア』そのものを所有するつもりだ。レシピは工場で簡略化され、お前の名前は大量生産品に貼られるロゴになる。そして、お前自身は、二度と自分のラーメンを作ることさえできなくなる。―――その権利が、もはやお前のものではなくなるからだ」
その言葉は、私の心臓を、冷たい手で鷲掴みにするかのようだった。
「私たちは、この世界で、ゼロから文化を創造した」
ジロの声には、珍しく、熱がこもっていた。
「だが、奴は違う。奴は、私たちが作り上げた文化を、『消費』しに来た、ただの捕食者だ。お前を信じる民衆の笑顔など、奴にとっては収益予測のデータの一つに過ぎん」
私は、ようやく、自分が感じていた悪寒の正体を理解した。
レオは、敵ではない。災害だ。私たちの温かい食卓を、根こそぎ食い荒らす、資本という名の、静かなるイナゴの大群。
「なぜ……なぜ、それを私に?」私は、震える声で尋ねた。「あなたは、私のライバルでしょう?」
ジロは、私に背を向けると、裏口の扉に手をかけた。
「勘違いするな。私は、私の究極の好敵手が、海の向こうから来た三流の商人に食い荒らされるのを、見過ごすつもりはない、と言っているだけだ」
彼は、一度だけ、鋭い視線で私を振り返った。
「お前を打ち負かすのは、この私だ。それまでは、何者にも喰われるな」
そして、最後に、彼は氷のような一言を残して、夜の闇へと消えていった。
「―――契約書を読め。悪魔は、いつだって細部に宿る」
一人残された厨房で、私は立ち尽くしていた。ジロの警告が、警鐘のように頭の中で鳴り響いている。
これは、もはや味の戦いではない。
私の、私たちの魂を守るための、新しい戦争が、始まろうとしていた。




