第七十九話:忘却の谷の儀式
私とケイレブ様、そして彼の率いる十名の精鋭騎士たち。私たちの最後の旅は、静寂と共に始まった。
私が背負う、魔法の箱。その中の一杯が、この世界の運命を握っている。ずっしりとした重みは、ただのラーメンのものではなかった。それは、街のみんなの希望と、失われゆく世界の、最後の祈りの重みだった。
「忘却の谷」への道は、ケイレブ様たちが以前通った時よりも、さらに過酷なものとなっていた。
「静かなる飢餓」は、私たちが街で神饌を創造している間にも、容赦なく進行していたのだ。森は完全に沈黙し、木々の葉は乾いた紙のように音を立てて崩れていく。大地は色を失い、空気はまるで埃を吸い込んでいるかのように、ざらついていた。世界から、「味」だけでなく「生命の彩り」そのものが、急速に失われつつあった。
数日後、私たちはついに、谷の入り口にたどり着いた。
崖の上から見下ろす谷底は、もはや死の世界ではなかった。それは、死さえも通り過ぎた後、何も残らなかった「無」の世界。重く、冷たく、そしてどこまでも哀しい気配が、谷底から淀みのように立ち上っていた。
「……待っておられたか」
ケイレブ様が呟く。
谷の中心、あの巨大な祭壇の前に、封印の番人である石のゴーレムが、静かに佇んでいた。その青白い瞳の光は、以前よりも弱々しく、しかし、私たちの到着を確かに待っていたかのように、こちらをまっすぐに見つめていた。
私たちは、谷底へと下りていった。
一歩、また一歩と進むごとに、魂が吸い取られていくような、強烈な生命力の枯渇を感じる。騎士たちの顔にも、疲労の色が濃く浮かんでいた。
やがて、祭壇の前へ。
ゴーレムは、何も語らない。ただ、その巨大な腕で、祭壇の上をそっと指し示した。さあ、始めなさい、と。
ケイレブ様が、騎士たちに命じる。
「これより、聖女様の儀式を執り行う。我々は、剣でではない。心で、聖女様をお守りするのだ」
騎士たちは、祭壇を囲むように、円形の陣を組んだ。それは、敵を阻むためのものではない。この場所に、清浄な祈りの空間を作り出すための、結界だった。
私は、一人、祭壇へと歩みを進めた。
そして、背負っていた魔法の箱を、ゆっくりと、祭壇の中央に置く。
蓋の留め金を、そっと外す。
その瞬間だった。
箱の中から、黄金色の光が、柔らかな奔流となって溢れ出した。
その光は、谷を覆っていた灰色の絶望を、優しく、しかし力強く押し返していく。光と共に、あの生命そのもののような、温かい香りが広がり、騎士たちの疲弊した心身を、そっと包み込んだ。
箱の中には、完成した時と寸分違わぬ、完璧な姿の「神饌ラーメン」が、自ら光を放つかのように、静かに湯気を立てていた。
私は、その一杯を、両手で、そっと取り出した。
そして、祭壇の向こう、谷の最も深い場所に宿るであろう、巨大な飢えの気配に向かって、静かに語りかけた。
それは、聖女の祈りではなかった。
ただ、一人の料理人としての、素朴な言葉だった。
「……お腹、空いたでしょう」
私の声が、静かな谷に響く。
「ずっと、寂しかったでしょう。忘れられて、悲しかったでしょう」
「でもね、私たちは、あなたを忘れてはいなかった。あなたが育んでくれた恵みを、私たちは毎日いただいて、生きてきた。これは、その全てへの、私たちの街のみんなからの、心からの『ありがとう』と、『ごちそうさま』です」
私は、その神々しい一杯を、祭壇の中央に、そっと置いた。
「さあ、召し上がれ」
その瞬間、ラーメンから放たれる黄金の光と湯気が、天を突く柱となって、まっすぐに立ち上った。
谷全体が、息を殺す。
風が止み、音が消え、世界中の時間が、この一杯の前に、ひれ伏したかのように、静止した。
飢えたる魂の、審判の時だった。




