第七話:沈黙の支配者
工房を支配していたのは、奇妙な静寂だった。
聞こえるのは、二人の男がレンゲでスープをすする音と、麺を口に運ぶ音だけ。
最初に口を開いたのは、司教ムツィオだった。
彼はレンゲを置き、目を閉じて、まるで神託でも受けるかのように天を仰いだ。
「……なるほど。これは、試練だ」
その声は、厳かで、どこか恍惚としている。
「この黄金のスープ……天上の秩序を思わせる、一点の曇りもない清らかな味。だがその奥底には、乳白色のスープ……大地から湧き上がる、混沌とした生命の力が渦巻いている。清濁併せ呑み、その調和を保つことこそが神の意志……この一杯は、それを体現しているというのか」
彼は目を開くと、射るような視線で私を見た。
「聖女よ。あなたは、我々の信仰の深さを、この一杯で試しておられるのだな」
(ち、違います!ダブルスープです!)
私の心の叫びは、もちろん届かない。彼は完全に自分の中の宗教的世界観で、このラーメンを解釈しきっていた。私の意図など、もはや介在する余地はない。
次に、これまで無言で食べ進めていた執事ヴァレリウスが、そっと器を置いた。
彼は、美食家らしく指で口元を拭うと、冷徹な鑑定士のような目で私に言った。
「……恐れ入りました、聖女様。これは奇跡などではない。これは、富だ」
「富、ですか?」
私が聞き返すと、彼は指を折りながら説明を始めた。
「まず、この『雲雀鶏』と『月光猪』。どちらも、騎士団の一部隊を動かさねば捕獲できない幻の食材。その原価だけで、この一杯は金貨数枚に値する」
「次に、この調理法。相反する二つの味を、互いの長所を殺さずに融合させるなど、王宮の料理長でも不可能。この技術は、城一つ分の価値がある」
「そして何より、この味。これさえあれば、他国の王侯貴族ですら、頭を下げて我が街を訪れるだろう。これは、他国を屈服させることすら可能な『外交兵器』だ」
ヴァレリウスは、うっそりとした笑みを浮かべた。
「聖女様。あなたは、たった一杯の汁物で、莫大な富と権力を生み出す術をご存知のようだ。我が主、領主ソラム様は、あなたを『街の至宝』として、正式に城へお迎えしたいと仰せになるでしょう」
宗教的な権威を見出した司教。
経済的・政治的な価値を見出した執事。
二人のアプローチは全く違う。だが、その瞳の奥に宿る独占欲の色は、全く同じだった。
彼らはもう、私を単なる「便利な聖女」とは見ていない。
自分たちの権力基盤を根底から揺るがしかねない、そして手に入れれば絶大な力となる、規格外の存在だと認識したのだ。
工房の空気が、再び張り詰める。
今度は、私を巡る、二つの権力の綱引きだ。
司教ムツィオが、静かに立ち上がった。
「聖女殿は、神に仕える身。俗世の権力に縛られるべき存在ではない。神殿で保護させていただくのが、理にかなっておりますな」
執事ヴァレリウスも、笑みを崩さずに言い返す。
「これはこれは司教様。聖女様の御業は、民の生活を豊かにしてこそ真の価値を発揮するもの。領主様の下で、街全体の発展のためにその力をお使いいただくのが、民にとっても幸せかと」
互いに一歩も引かない。睨み合う二人の間を、ラーメンの湯気だけが静かに立ち上っていた。
私は、どうすればいいのか分からず、ただ固まっていた。
その時、これまで黙って壁際に控えていたドルフさんが、わざとらしく大きな咳払いをした。
「お二人とも、お忘れかな? 聖女様を『発見』し、その活動の場を提供したのは、この私と、冒険者ギルドだということを」
その声には、確かな凄みが含まれていた。
「聖女様の奇跡の材料を命がけで集めてくるのは、誰だ? 聖女様の工房をお守りしているのは、誰だ? 神殿の祈りか? 領主の命令か? 違う。血と汗を流す、我々冒険者だ」
ドルフさんは、私の隣に立つと、両者の顔を交互に睨みつけた。
「聖女様は、神殿のものでも、領主のものでもない。聖女様は、我々ギルドと『契約』を結んだ、大切なパートナーだ。彼女の意思を無視して、物事を進めることは誰にもできん。―――そうだろ? 聖女様」
ドルフさんに話を振られ、私はびくりと肩を震わせる。
司教と執事の視線が、一斉に私に突き刺さった。
そうだ。これは、彼らの戦いじゃない。私の問題だ。ここで、私がどう答えるか。
私は、前世で培った処世術をフル回転させた。そうだ、こういう時は……誰の敵にも回らず、かつ主導権を握る、あの言葉だ。
私は、にっこりと、できる限り聖女らしく見えるように微笑んでみせた。
「皆様、私のためにありがとうございます。ですが、神も、民も、私にとっては等しく大切な存在です」
私は、一度言葉を切って、続けた。
「つきましては、皆様からのご提案、一度持ち帰らせていただき、『慎重に検討』させていただきます」
前世の日本で、あらゆる会議を先延ばしにしてきた魔法の言葉。
「前向きに検討します」とほぼ同義の、事実上の保留宣言。
私の言葉に、司教も執事も、そしてドルフさんさえも、一瞬呆気にとられたような顔をした。
彼らの頭の中では、私が誰かを選び、事態が動くはずだったのだろう。その予想を、私はふわりと、すり抜けてみせた。
この瞬間、私はただの駒であることをやめた。
神殿と領主、そしてギルドという三つの勢力の間で、自らの価値を武器に立ち回る、新たなプレイヤーになったのだ。




