第七十五話:莉奈の「発酵」とジロの「熟成」
街全体が巨大な厨房と化した、その翌日。
究極の一杯、「神饌ラーメン」の創造は、その心臓部である「タレ」と「チャーシュー」の制作から、本格的に始まった。そしてそれは、私とジロ、二人の全く異なる哲学が、初めて一つの目的のために交錯する瞬間でもあった。
まず、私が担当したのは、スープの味の根幹を決める「タレ」の素……すなわち、この世界の誰も知らない「醤」と「味噌」の醸造だった。
広場の一角に、街中の職人たちが総出で作り上げた、巨大な木の樽がいくつも並べられる。その中に入れられるのは、農夫たちが誇らしげに運び込んできた、最高品質の大豆や小麦、そしてケイレブ様たちが命がけで見つけ出した、ミネラル豊富な古代の岩塩。
「いいかい、みんな!」
私は、集まってくれた街の人々に、大きな声で呼びかけた。「美味しいお味噌を作るのに、一番大切な隠し味は、魔法じゃない。それは、みんなの『手』と、『時間』と、そして『愛情』なんだよ!」
私の言葉に、人々は「おおー!」と歓声を上げる。
子供たちが、楽しそうに蒸し上がった大豆を足で踏み潰し、女性たちが、歌を歌いながらそれをこねて団子を作る。男たちは、力強くそれを樽の中へと仕込んでいく。それは、調理というより、収穫を祝う、喜びに満ちた祭りのようだった。
私は、前世の記憶を頼りに、麹菌に似た性質を持つ、森の特殊な酵母菌を培養し、それを樽の中へと加えた。
「これから、この樽の中で、小さな命たちが、大豆や小麦の魂を、新しい『旨味』へと変えていってくれる。私たちは、ただ、静かに、その営みを見守るだけ」
樽に蓋がされ、神殿の地下にある、涼しく清浄な貯蔵庫へと運ばれていく。それは、人の力が及ばぬ、生命と時間だけが作り出せる、究極の調味料への、長い祈りの始まりだった。
一方、その対極。
ジロが担当したのは、一杯の華となる「チャーシュー」だった。
彼が陣取るのは、広場の反対側、魔法の結界が張られ、外部から完全に隔離された一角。彼が取り出したのは、ケイレブ様の部隊が「竜の顎」で仕留めたという、伝説の魔獣「霊峰の岩猪」の、霜降りのロース肉だった。
ジロは、その肉塊を前に、詠唱を始める。彼の周囲に、複雑怪奇な魔法陣が青白い光を放って浮かび上がった。
「来たぞ……美食の魔王の、おでましだ」
遠巻きに見ていた冒険者たちが、固唾をのむ。
「時間加速……三百倍速」
ジロが静かに呟くと、魔法陣の中の肉塊だけが、陽炎のように揺らめき始めた。時間の流れが、そこだけ異常に加速されているのだ。
「たった数時間で、三百日分の熟成を施す。肉の細胞は破壊と再生を繰り返し、アミノ酸は極限まで分解され、旨味へと昇華する。これぞ、科学と魔法が融合した、究極の熟成肉だ」
彼のやり方は、私のそれとは真逆。生命の営みを待つのではなく、人間の知性で、時間を支配し、ねじ伏せる。完璧で、冷徹で、そして神をも恐れぬ、傲慢なまでの技術の結晶だった。
数時間後。魔法陣が光を失い、そこに現れたのは、見た目は変わらないが、もはや肉というより、凝縮された旨味の宝石とでも言うべき、究極の肉塊だった。
だが、それを薄切りにし、味見をしたジロは、初めて、わずかに眉をひそめた。
「……完璧だ。技術的には。だが、何かが足りない。魂の『温もり』が……」
その時だった。
私は、発酵を始めた醤の樽から、一番搾りの、まだ若いが生命力に満ちた液体を、一掬い、彼の下へと持っていった。
「ジロさん。よかったら、これを……あなたの完璧なチャーシューの、下味に使ってみませんか」
ジロは、一瞬、私の差し出した器と、私の顔を、信じられないというように見比べた。そして、その液体を分析魔道具にかけると、驚愕に目を見開いた。そこには、彼の知らない、有機的で、複雑怪奇な旨味の組成式が表示されていたからだ。
彼は、無言で、私の醤を受け取った。
そして、究極の熟成肉を、その生命力あふれる液体に、そっと浸した。
ジュウ、という音と共に、二つの相反する哲学が、初めて融合した。
その瞬間、広場全体に、誰も嗅いだことのない、濃厚でありながら、どこまでも優しい、奇跡のような香りが、ふわりと立ち上った。
ドルフさんも、ミーシャも、その場にいた誰もが、これから生まれる一杯が、ただのラーメンではない、本物の奇跡になることを、確信していた。




