第七十三話:莉奈とジロの答え
ケイレブ様からの報せを待つ間、私とジロは古代遺跡に留まり、発見した手がかりの分析を続けていた。私たちの間には、もはや以前のような刺々しい雰囲気はなく、一つの難解な方程式に挑む、二人の研究者のような空気が流れていた。
「壁画の『発酵』と『乾燥』。そして祭壇の石から検出された、異常なまでのアミノ酸結合体。この二つが繋がるのは間違いない」
ジロは、野営地の焚き火の前で、羊皮紙に複雑な化学式を書きながら呟いた。「山の幸と海の幸。それぞれを異なるプロセスで加工し、旨味を極限まで凝縮させた後、最後に合わせることで爆発的な相乗効果を生み出す。古代人は、驚くべき調理科学の知識を持っていたようだ」
「ええ」私も、焚き火で温めたスープをすすりながら頷いた。「でも、何かが足りない。ただ技術的に優れたスープを作るだけなら、あなたにもできたはず。どうして、神饌でなければならなかったのか。その『魂』の部分が、まだ見えないんです」
私たちの議論は、夜更けまで続いた。だが、その核心に触れることはできずにいた。
その時だった。
闇の中から、風のように一つの影が現れた。ボロボロの旅装束に身を包み、その顔には極度の疲労と、しかし強靭な使命感が浮かんでいる。ケイレブ様の部隊で、最も俊足だとされたレンジャーだった。
「……莉奈殿!ジロ殿!」
彼は、私たちの前にたどり着くと同時に、崩れるように膝をついた。
「ケイレブ隊長からの、伝言です……!」
私たちは、彼を焚き火のそばに座らせ、温かいスープを手渡した。彼はそれを震える手で受け取ると、忘却の谷で目にした、衝撃の真実を語り始めた。
巨大な封印の番人、石のゴーレムのこと。そして、彼が語った、「味喰らい」の正体。
それは、邪悪な魔物などではなく、人々に忘れ去られ、飢えに苦しむ、大地そのものの精霊の哀れな姿なのだと。
レンジャーの言葉が、焚き火の爆ぜる音の中に、重く響き渡る。
討伐でも、封印でもない。
あの巨大な飢えと孤独を、満たしてあげること。それだけが、世界を救う唯一の道。
その真実を聞いた瞬間、私の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、一つの完璧な絵を形作った。
「……そうか」
私の唇から、吐息のような声が漏れた。
「そうだったんだ……!」
私は、壁画の光景を、もう一度、鮮明に思い浮かべた。
あれは、ただの調理工程の記録ではなかった。収穫への感謝、発酵を待つ間の祈り、太陽の下での労働。その全てが、一つの儀式だったのだ。
神饌とは、ただ技術的に優れた料理ではない。
それは、大地からいただいた恵みを、人の手で、知恵と真心を込めて、さらに生命力溢れる形へと昇華させ、再び大地へとお返しする、「感謝」と「生命」の循環そのものだったのだ。
「……馬鹿な。精霊だと?非科学的だ」
隣で話を聞いていたジロは、最初は冷ややかに、その物語を否定した。
だが、彼の科学者の脳が、レンジャーの報告と、自らのデータを結びつけ始めた時、その顔から、ゆっくりと血の気が引いていくのが分かった。
「……待て。食材から『生命力』が収奪されている現象。あれは、単なる劣化ではない。飢えたる存在による、『捕食』だと考えれば……。ゴーレムの言う、大地の精霊の飢えと、私のデータは、完璧に一致する……」
彼は、わなわなと震え始めた。
「だとしたら……。だとしたら、我々が作るべき一杯は、ただアミノ酸の数値を高めただけの、完璧なスープなどではない。生命力そのものを……『感謝』という、観測不能なエネルギーを、料理に組み込まなければならないというのか……!」
ジロは、初めて、自分の科学の限界に突き当たった。彼の完璧な理論では、決して構築できない領域。人の「心」という、非合理的な要素。それこそが、神饌を完成させる、最後の鍵だったのだ。
彼は、ゆっくりと、私の顔を見た。その瞳には、初めて、私に対する、純粋な敬意の色が浮かんでいた。
「……帰るぞ」
ジロは、静かに、しかし力強く言った。
「感傷料理人。どうやら、この世界の運命は、お前の非合理的な『心』と、私の合理的な『技術』、その両方がなければ救えないらしい」
私たちの間にあった壁は、完全に消え去っていた。
目指すべき一杯の姿は、見えた。
それは、どちらか一人の哲学では、決して到達できない、究極の領域。
反発しあっていた二人の天才は、今、世界の命運を賭けて、初めて、一つの厨房に立つことを決意したのだ。




