第七十二話:忘却の谷の真実
私とジロが、古代の遺跡で神饌への確かな手掛かりを発見した、まさにその頃。
ケイレブ様率いる討伐・調査部隊は、筆舌に尽くしがたい苦難の末、ついに最終目的地である「忘却の谷」の入り口に到達していた。
そこは、地図の終わり、世界の果てだった。
谷を見下ろす崖の上に立った騎士たちは、言葉を失った。眼下に広がるのは、死の世界。大地は灰色にひび割れ、木々は白骨のように枯れ果て、川はとうの昔に干上がっている。風の音すら、ここでは飢えた獣の呻き声のように聞こえた。
「……ひどい」
若い騎士の一人が、思わず呟く。この谷全体が、「静かなる飢餓」の病巣のようだった。ここから、死と無気力が、世界へと流れ出している。
ケイレブ様は、無言で剣を抜き放つと、部隊に前進を命じた。
「これより谷の中心部へ向かう。何が起きても、決して心を乱すな。我々の使命を、忘れるな」
谷底へ下りるにつれ、空気はさらに重く、冷たくなっていく。そして、騎士たちは気づいた。自分たちの体から、急速に力が失われていくのを。ただ歩いているだけで、魂が吸い取られていくような、強烈な飢餓感。それは、腹が減るのとは違う、もっと根源的な、生命力の枯渇だった。
数時間後。彼らは、谷の中心にある、巨大な円形の広場にたどり着いた。
広場の中央には、風化してなお、その威容を保つ巨大な祭壇が鎮座していた。古代の文字が刻まれた黒い石の祭壇。だが、それは力を失い、ただの巨大な墓石のように、静まり返っている。
「……ここが、封印の地か」
ケイレブ様が、祭壇に一歩、足を踏み出した、その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……!
大地が、激しく震動した。広場の地面が割れ、周囲の岩々が、まるで意思を持ったかのように、祭壇の前へと集まっていく。岩は組み合わさり、人の形を成し、やがて、高さ十メートルはあろうかという、巨大な石のゴーレムとなって、その姿を現した。
その瞳には、神々の時代から燃え続ける、青白い古代の魔法の光が宿っていた。
「何人たりとも、この聖域を汚すことは許さぬ」
声ではない。重く、厳かな思念が、騎士たちの脳内に直接響き渡った。
「我は、封印の番人。去れ、定命の者たちよ」
騎士たちが、一斉に剣を構える。だが、ケイレブ様は、それを手で制した。彼は、巨大なゴーレムを前にしても、一歩も引かず、その青白い瞳をまっすぐに見つめ返した。
「我々は、戦いに来たのではない、番人殿。我々は、世界を蝕む『静かなる飢餓』を止め、大地を救うために参った」
ケイレブ様の、一点の曇りもない決意を読み取ったのか、ゴーレムの動きが、わずかに止まった。
「……救う、だと?お前たち人間が、忘却の果てに、ようやく思い出したというのか」
ゴーレムの思念に、深い、深い哀しみの色が混じる。
「お前たちが『味喰らい』と呼ぶ存在は、邪悪な魔物などではない。あれは……この大地そのものの、飢え、そして嘆き。忘れ去られた、大地の精霊の、哀れな姿なのだ」
その衝撃の事実に、騎士たちは息をのんだ。
ゴーレムは語り始めた。
遠い昔、人々は大地に感謝し、収穫の一部を捧げ、食卓の喜びを大地と分かち合っていた。その感謝の念が、大地の精霊を育み、世界は豊かさに満ちていた、と。
しかし、時代が下り、人々は感謝を忘れた。食事はただの作業となり、食材はただの商品となった。忘れ去られた大地の精霊は、誰からも想われることなく、ゆっくりと、しかし確実に、飢え始めた。
「『静かなる飢餓』とは、精霊の、助けを求める悲鳴なのだ。そして、この封印は、精霊を閉じ込めるためのものではない。その魂が、完全に消滅してしまわぬよう、かろうじて守るための、最後の砦なのだ」
ケイレブ様は、ゴーレムの言葉を、静かに聞いていた。
「……では、どうすれば、精霊は救われるのだ」
「討伐ではない。封印でもない」ゴーレムの思念が、力強く響く。「満たすのだ。その巨大な飢えと、孤独を。魂の底から満たすことができる、ただ一つの供物。神々の時代の『神饌』。それだけが、精霊の心を癒し、大地を再び眠りにつかせることができる」
ゴーレムの青白い瞳が、ケイレブ様を捉えた。
「東の地で、古き叡智を求める者たちの気配を感じる。希望の光は、まだ消えてはおらぬようだ。行け、騎士よ。そして伝えよ。この谷で、飢えたる魂が、救いを待ちわびている、と」
その言葉を最後に、ゴーレムは再び岩塊へと姿を変え、大地へと帰っていった。
ケイレブ様は、静かに剣を納めた。彼の任務は、終わったのだ。いや、本当の戦いは、ここから始まる。
彼は、部隊の中で最も俊足のレンジャーを呼び寄せた。
「聞いただろう。この真実を、一刻も早く、リナ殿とジロ殿の下へ届けよ。我々の、そして世界の運命は、彼らの厨房に託された!」
レンジャーは力強く頷くと、風のように、谷を駆け上がっていった。
ケイレブ様は、静まり返った祭壇を見つめ、遠い東の空にいる、仲間たちの顔を思い浮かべていた。
剣では、世界は救えない。
ならば、託すしかない。一杯の、温かいラーメンに。




