第六十九話:氷壁と飢えたる牙
私とジロが、反発しながらも失われたレシピへの旅を始めた頃。
ケイレブ様率いる討伐・調査部隊は、人知を超えた過酷な自然との戦いを繰り広げていた。
彼らが足を踏み入れたのは、王国の西の果て、「竜の顎」と呼ばれる険しい山脈地帯。天を突く剃刀のような岩肌が連なり、まるで巨大な竜が大地を噛み砕いたかのようなその場所は、あらゆる生命を拒絶しているかのようだった。
だが、彼らを本当に苦しめたのは、その地形の厳しさではなかった。
「……おかしい」
部隊の一員であるレンジャーが、周囲の木々を見渡し、眉をひそめた。「この森は、静かすぎる」
その言葉通り、森は不気味なほどに静まり返っていた。鳥の声も、獣の気配もほとんどない。木々の枝は力なく垂れ下がり、岩肌を覆う苔は、まるで血の気を失ったかのように色褪せていた。大地そのものが、深い病にかかっている。それこそが、「静かなる飢餓」がもたらした、恐るべき現実の姿だった。
最初の襲撃は、旅の三日目に訪れた。
現れたのは、ゴブリンの小隊。だが、その姿は、彼らが知るゴブリンとは似ても似つかぬものだった。痩せこけ、肋骨が浮き出て、その緑の瞳には、狡猾さではなく、ただ純粋な飢餓の光だけが狂気のように宿っていた。
彼らの攻撃に、戦術はなかった。ただ、生き物の肉を求めて、がむしゃらに、そして自らの命を顧みずに突撃してくるだけだった。
「陣形を組め!だが、深追いするな!」
ケイレブ様の冷静な号令が飛ぶ。騎士たちは、そのあまりに異様な敵の姿に戸惑いながらも、完璧な連携でゴブリンたちを打ち払っていく。
全てのゴブリンが地に伏した時、騎士の一人が、その骸を剣の先で転がし、呟いた。
「……なんてこった。こいつら、腹の中には土くれしか入ってねえ……」
飢えのあまり、土を食っていたのだ。
ケイレブ様は、その哀れな亡骸を、氷壁のような無表情で見下ろしていたが、その瞳の奥には、確かな哀れみの色が浮かんでいた。この災厄は、魔物さえも、ただの飢えたる獣に変えてしまうのだ。
その夜、野営地で焚き火を囲む騎士たちの顔には、疲労と、そして拭いきれない不安の色が浮かんでいた。
彼らの心の拠り所は、私が持たせてくれた、特製の「レーション・ラーメン」だけだった。
「……ありがてえ。この温かさが、身に染みるぜ」
若い騎士が、湯気の立つスープをすすり、ほっと息をつく。だが、すぐに、その表情がわずかに曇った。
「……隊長。一つ、お聞きしても?」
「何だ」
「このラーメン……もちろん、とてつもなく美味いんです。美味い、はずなのに……何故だか、腹の底から満たされる感じが、しないんです」
その言葉に、焚き火を囲む全員が、ハッとして顔を見合わせた。誰もが、口には出さなかったが、心の内で感じていた違和感。その正体を、若い騎士が言い当ててしまったのだ。
ケイレブ様は、自らの椀に残っていたスープを、静かに一口すする。
そして、ゆっくりと、しかし全員に聞こえるように、はっきりと言った。
「……そうだ。我々が今、この舌で感じているものこそが、『味喰らい』の正体だ」
彼の言葉に、騎士たちの顔から血の気が引いた。
「我々の魂を満たすべき、食に宿る『生命力』そのものが、この世界から奪われつつある。だからこそ、我々は進まねばならん。この現象の根源を断ち切るために。―――リナ殿が作る、あの本当の温かい一杯を、再び腹の底から味わうために」
ケイレブ様の言葉は、彼らの不安を、揺るぎない使命感へと変えた。
だが、災厄は、彼らに休息を与えない。
突如、夜空を切り裂いて、甲高い咆哮が響き渡った。見上げると、月明かりを背に、一頭のワイバーンが、飢えた目で野営地を見下ろしていた。その翼はところどころ破れ、その巨体は、ゴブリンと同じように、痛々しいほどに痩せこけていた。
「総員、構えろ!」
ケイレブ様の声が響く。
氷壁の騎士と、飢えたる牙の戦いが、今、始まろうとしていた。




