第六十五話:科学者の分析
プライドを捨てる、というのは、これほど重い決断だっただろうか。
私が『美食殿 極』へ向かうと告げた時、ミーシャもゴークも、血相を変えて私を止めようとした。
「莉奈さん、正気ですか!?あんなに私たちを馬鹿にした男に、頭を下げに行くなんて!」
「そうだぜ親方!あいつの助けなんざなくたって、俺たちが……!」
「違うんだよ」私は、二人の肩にそっと手を置いた。「これはもう、店同士のプライドの問題じゃない。この街の、ううん、この世界の食卓そのものが、静かに死にかけている。私の『経験』と『記憶』だけじゃ、もう太刀打ちできない。今、私たちに必要なのは……私とは全く違う角度から、この現象を分析できる、あの男の『科学』の力なの」
私の必死の説得に、二人は悔しそうに、しかし、最後はこくりと頷いてくれた。
『美食殿 極』の黒い扉は、相変わらず人を寄せ付けないオーラを放っていた。私が扉の前に立つと、中から現れた執事は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに無表情に戻り、「ジロ様は、ラボにおられます」と、私を最上階へと案内した。
そこは、私が以前想像した通り、厨房というより、最先端の研究室だった。壁一面に並ぶのは、見たこともない魔道具の数々。フラスコやビーカーが並び、中央の魔法水晶には、いくつもの難解な数式やグラフが、目まぐるしく表示されていた。
その中央で、白衣をまとったジロが、顕微鏡のような魔道具を覗き込んでいた。彼は、私の来訪に気づいても、視線を上げようともしない。
「……何の用だ、敗北者。思い出話に浸るスープでは、ついに民衆の舌も飽きさせたか」
彼の口調は、相変わらず冷たく、棘があった。
私は、その言葉をぐっとこらえ、深く、深く頭を下げた。
「ジロさん。お願いがあります。あなたの力を、貸してください」
私のその一言に、ジロは初めて、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、侮蔑ではなく、純粋な知的好奇心の色が浮かんでいた。
「……ほう。ようやく、自分の限界を認める気になったか。具体的に、何が起きた」
私は、この一ヶ月間に起こった全てを、正直に話した。スープの味がぼやけること。人々が満腹感を得られなくなっていること。そして、あの野菜嫌いの女の子が、私のラーメンに何の感動も示さなかったこと。
私の話が終わっても、ジロは驚いた様子を見せなかった。彼はただ、無言で魔法水晶を指し示した。
「お前が気づくより、ずっと前から、私はこの現象を分析していた」
水晶に映し出されたのは、この街のあらゆる食材――小麦、野菜、月光猪の骨に至るまで――の、「生命力」の数値を示すグラフだった。そして、そのどれもが、ここ数ヶ月で、緩やかに、しかし確実に、右肩下がりに下降を続けている。
「これは、天候不順などという曖昧なものではない。明確な、未知の要因による『エネルギー収奪現象』だ」
ジロは、冷徹な科学者の口調で続けた。
「食材から、味と栄養の根源となる魔力素子が、何者かによって吸い出されている。我々は、もはや食材の『抜け殻』を食べているに過ぎない。これでは、魂が満たされるはずがない」
彼の言葉は、私の感じていた漠然とした不安に、絶望的なまでに明確な輪郭を与えた。
「そんな……。じゃあ、どうすれば……」
「分からん」ジロは、きっぱりと言い切った。「だが、一つだけ言えることがある。これは、もはや料理の戦いではない。我々の食文化、いや、生命そのものの存続をかけた、未知の敵との戦争だ。そして、この謎を解き明かせなければ……」
彼は、私をまっすぐに見つめた。
「……お前の温かいスープも、私の完璧な芸術も、等しく無価値になる」
その瞬間、私と彼の間にあった、ライバルとしての壁が、音を立てて崩れ落ちた。
目の前にいるのは、憎い好敵手ではない。私と同じ前世の記憶を持ち、この世界の食の未来を憂う、唯一の「同業者」だった。
「……手を貸そう」
ジロは、静かに言った。
「これは、私の美学に対する挑戦でもある。こんな不条理な形で、私の芸術が汚されるのは、我慢ならんからな」
それは、友情からではなかった。だが、それぞれの哲学を守るための、利害の一致。
こうして、この街で最も相容れないはずだった二人の天才料理人は、見えざる巨大な敵を前に、初めて、一つの厨房に並び立つことになったのだ。




