第六十四話:満たされない人々
私がスープの異変に気づいてから、一ヶ月が過ぎた。
その間に、街を覆い始めた静かな病は、もはや誰の目にも明らかなものとなっていた。
異変は、まず人々の胃袋に現れた。
『聖女の厨房』で、いつものように「濃厚体力味噌ラーメン」の大盛りを注文した、ギルドの屈強な冒険者がいた。彼は、いつもならその一杯で満足げに腹をさすり、午後の討伐クエストへと向かうはずだった。
しかし、その日、彼はどんぶりを空にした後も、どこか物足りなさそうな、不思議な顔をしていた。
「……親方。すまねえが、もう一杯、同じものをくれ」
「ええっ!?」
厨房にいた誰もが耳を疑った。彼が同じラーメンをおかわりするなど、前代未聞だった。私は驚きながらも、二杯目を用意した。彼はそれも黙々と平らげたが、その表情は晴れない。
「どうも、腹の虫が収まらねえんだ」彼は、自分の腹をさすりながら呟いた。「食った気はするんだが、心の底から満たされる感じが、しねえ」
その言葉は、予言のように街全体へと広がっていった。
人々は、以前より多くの量を食べるようになった。パン屋は追加のパンを焼き、食堂は米を炊き増したが、誰もが「満たされない」と言った。たくさん食べているはずなのに、誰もが常に、かすかな空腹感を抱えている。
その結果、街から活気が失われていった。
食後の満足のため息は、物足りなさのため息に変わり、広場での陽気な笑い声は、原因不明の倦怠感を訴えるひそひそ話に取って代わられた。美食都市として栄えていたこの街から、食の「喜び」が、ゆっくりと、しかし確実に抜き取られていくようだった。
その異常事態を、科学者の目で分析している男がいた。ジロだった。
彼のラボでは、魔法の水晶が、街の井戸水、土、そして市場の野菜に含まれる「生命力」の数値を、リアルタイムで表示し続けていた。その数値は、どれもが緩やかに、しかし一直線に、下降を続けていた。
「これは病だ」
ジロは、側に控える執事に、断言した。
「天候不順などという、曖昧なものではない。食そのものにかけられた、静かな呪いと言っていい。人々は、ただの『物質』を摂取しているに過ぎない。魂を満たすための『エネルギー』が、どこかで消失している」
彼は、私の店の方角を、鋭い目で見つめた。
「……あの女は、気づいているはずだ。この現象の、本当の恐ろしさに」
ジロの推測通り、私の心は焦燥感で焼き尽くされそうだった。
食材の量を増やしても、煮込み時間を長くしても、スープの魂は戻らない。私のラーメンは、もはや人々を心の底から笑顔にすることができなくなっていた。
その現実を、最も残酷な形で突きつけられたのは、ある雨の日の午後だった。
店に、小さな女の子が母親に連れられてやってきた。彼女は、かつて革命の後、私が広場で炊き出しをした時に、初めて私のラーメンを食べて野菜嫌いを克服した、忘れられない子供だった。
「聖女様のラーメンなら、また元気になるかと思って……」
母親は、最近この子も食が細く、元気をなくしているのだと、心配そうに言った。
私は、特別な思いを込めて、彼女のために野菜たっぷりの醤油ラーメンを作った。
「さあ、お食べ」
女の子は、こくりと頷き、麺をすする。
だが、その瞳は、輝いていなかった。かつてのように「美味しい!」と笑うこともなく、ただ、与えられた食事をこなすように、無表情で食べ進めていく。
食べ終えた後、彼女は小さな声で「ごちそうさま」と言っただけだった。その顔には、満足感も、喜びも、浮かんでいなかった。
私のラーメンが、負けた。
病気や、人の悪意にではない。目に見えない、世界の法則そのもののような、巨大で、抗いがたい何かに、私の料理の魂が、吸い取られてしまったのだ。
がらんとした店内で、私は一人、冷たくなった少女の食べ残しのスープを見つめ、唇を噛み締めた。
もう、私一人の知識と経験でどうにかなる問題ではない。
この街を、そして私たちの食卓を救うには、私とは全く違う知識と視点を持つ、あの男の力が必要だ。
私は、意を決して立ち上がった。
向かう先は、広場の向かいにそびえ立つ、あの黒い美食の城だった。




