第六十三話:色褪せ始めた食卓
建国祭から二年。私たちの街は、誰もが認める王国随一の「美食都市」として、その黄金期を謳歌していた。
『聖女の厨房』は変わらず街の心臓として温かい湯気を立て、その向かいに立つ『Jiro's』は孤高の芸術品を求める客で連日満席。かつての対立は、街の食文化をより豊かにする、健全な切磋琢磨へと昇華されていた。広場には観光客があふれ、誰もがこの平和と繁栄が永遠に続くと信じていた。
その、ほんの些細な異変に、私が最初に気づいたのは、ある日の早朝のことだった。
厨房で、いつものように寸胴鍋の火の番をしながら、私はスープの味を確かめるための一匙を口に含んだ。
素材の配合は完璧。火加減も、煮込み時間も、寸分の狂いもない。長年培ってきた私の舌と経験が、そう告げている。
だが。
「……ん?」
思わず、首を傾げた。
美味しくないわけじゃない。間違いなく、私のラーメンのスープの味だ。
しかし、いつもなら舌の奥に広がるはずの、幾重にも重なった旨味の層が、一枚、薄皮を剥がしたように、どこか物足りない。味の輪郭が、ほんのわずかに、ぼやけている。
まるで、鮮やかな絵画の色が、ほんの少しだけ褪せてしまったかのような、寂しい違和感。
「……気のせい、かな。ちょっと疲れてるのかも」
私は自分にそう言い聞かせ、その日は塩をほんの少しだけ足して、味の輪郭を無理やり立たせた。
だが、その違和感は、日を追うごとに、無視できないものになっていった。
「親方、今日のスープ、少し味が薄い気がしませんか?」
一番弟子の青年が、恐る恐る尋ねてきた。私だけでなく、毎日スープと向き合っている彼さえもが、その変化に気づき始めたのだ。
慌てて、私は「月光猪」の骨を追加で投入し、煮込み時間を長くした。だが、結果は同じだった。いくら素材を足しても、スープの魂というべき「深み」が、戻ってこない。
その異変は、私の厨房だけの問題ではなかった。
その日の夕方、街の片隅にある『Jiro's』の、ラボのように清潔な厨房で、ジロは魔法の水晶に映し出された食材の成分分析データを見て、初めて眉根を寄せた。
「……おかしい」
データは、彼が契約農家から取り寄せた、最高級の野菜のものだった。糖度、水分量、繊維の質、すべてが彼の定めた基準値をクリアしている。しかし、ただ一点。「生命力」と表示される、この世界の食材が持つ根源的なエネルギー数値だけが、過去のデータに比べて、明らかに低い値を示していたのだ。
「天候不順か?いや、この落ち方は尋常じゃない。まるで……誰かに、養分を吸い取られたかのようだ」
科学者としての彼の冷徹な分析が、この異変の裏に、未知の法則の介在を告げていた。
そして、その変化は、街の人々の日常にも、静かな影を落とし始めていた。
市場では、農夫たちが首を傾げていた。
「どうも、今年の作物は、味が乗らねえなあ」
「うちの鶏も、産む卵の黄身の色が、なんだか薄い気がするんだよ」
酒場では、常連たちが不満を漏らしていた。
「最近、エールが水っぽくないか?」
「パンも、昔のような小麦の香りがしねえよな」
それは、まだ誰もが「気のせい」「天気のせい」で済ませられる、本当に些細な変化だった。
だが、街全体が、まるで色褪せていく絵画のように、その鮮やかな「味」と「活気」を、ほんの少しずつ、しかし確実に、失い始めていた。
その夜、私は一人、火の落ちた厨房で、冷たくなった寸胴鍋の前に立ち尽くしていた。
今日の営業で、初めて、客から「なんだか、今日のラーメンはいつもの感動がないね」と言われてしまったのだ。
私は、昼間のスープをもう一度、口に含んだ。
美味しい。だが、魂が、ない。
この違和感の正体は、私の腕の問題ではない。
もっと根源的な、この世界の食材そのものが、静かに、そして深く、病んでいるのだ。
私は、得体の知れない、巨大な脅威の足音を、確かに聞いていた。




