第六十二話:食卓は続くよ、どこまでも
建国祭の熱狂が過ぎ去り、街が心地よい疲労感と達成感に包まれた夜。
『聖女の厨房』の裏口を、静かに叩く者がいた。後片付けをしていた私が出てみると、そこに立っていたのは、調理衣を脱ぎ、簡素な旅人のような格好をした、ジロだった。彼の顔からは、かつての傲岸な自信は消え、ただ深い問いをたたえた、静かな表情があった。
「……少し、いいか」
私は、彼を店の中へと招き入れた。火の消えた厨房は、静まり返っている。
二人分の温かい麦茶を淹れると、長い沈黙の後、彼の方から、ぽつりと切り出した。
「……負けたよ。完敗だ」
彼は、テーブルの木目をじっと見つめながら続けた。「だが、理解できない。私の技術、私の理論、私の食材、その全てがお前のそれを上回っていたはずだ。なのになぜ、私は負けた?なぜ、お前は、そこまで他人のために料理が作れる?お前の原動力は、一体何なんだ?」
それは、彼の魂からの問いだった。
私は、少し考えて、それから、ふっと笑った。
「原動力、なんて、そんな難しいものじゃないですよ」
私は、自分の湯呑を両手で包み込みながら、答えた。
「ただ……一人は、寂しいから。一人で食べるご飯より、みんなで食べるご飯の方が、ずっと美味しいでしょう?」
私のあまりにも素朴な答えに、ジロは、虚を突かれたように、きょとんと目を見開いた。
「ただ、それだけか?」
「はい、それだけです」
私は、厨房に残っていた、賄い用の味噌ラーメンを温め直し、彼の前にそっと置いた。それは、何の飾り気もない、ただの温かい一杯だった。
「さ、冷めないうちに」
ジロは、しばらくそのラーメンを黙って見つめていたが、やがて、ゆっくりとレンゲを手に取った。
スープを一口、すする。
その瞬間、彼の肩から、ふっと力が抜けていくのが分かった。完璧さという重い鎧が、ゆっくりと溶けていくように。彼は、何も言わずに、ただ夢中で、子供のように、その一杯を平らげていった。
空になったどんぶりを置くと、彼は「……ごちそうさま」とだけ呟き、静かに店を去っていった。
私と彼の間に、それ以上の言葉は必要なかった。
それから、数ヶ月後。
私たちの街は、さらに豊かな食文化を花開かせていた。
『聖女の厨房』は、変わらず街の心臓として、温かいラーメンを求める人々で賑わっている。
そして、街の片隅に、一軒の小さな店が、ひっそりとオープンした。
看板には、ただ【Jiro's】とだけ書かれている。
そこは、一日十席限定の、完全予約制。ジロが、彼の哲学を曲げることなく、完璧な一杯を、それを本当に理解したいと願う客だけに提供する、求道者のような店だった。
だが、その磨き上げられたカウンターの隅には、彼が研究のために仕入れたのであろう、小さな味噌の樽が、そっと置かれているのを、ミーシャが見つけて、私にこっそり教えてくれた。
私たちの街は、受け入れたのだ。
皆で笑い合う、温かい食卓も。
一人静かに、芸術と向き合う、孤高の食卓も。
その両方が存在することで、街は、もっと深く、もっと面白い場所になっていく。
「はい、おまちどうさま!特製醤油ラーメン、一丁!」
私は、今日も厨房に立ち、湯気の向こうにある、客たちの笑顔を見つめる。
私の物語は、歴史書に刻まれるような、英雄譚ではないのかもしれない。
でも、この一杯のスープの中に、この湯気の中に、確かに物語は存在する。
そして、お腹を空かせた人が一人でもいる限り。
この温かい食卓の物語は、これからもずっと、続いていく。




