第六十話:究極の隠し味
審判員たちが、私の差し出した、ありふれた味噌ラーメンを前に、戸惑いの表情を浮かべていた。ジロの、脳を揺さぶるような完璧な一杯の後では、無理もないことだった。観衆の期待も、失望へと変わりかけていた。
セオドーラ様が、私に真意を問うような視線を向ける。私は、静かに頷き返すと、マイクを通して、ゆっくりと語り始めた。
「私の『未来』は、この一杯の、全てに溶け込んでいます」
審判員たちは、私の言葉を聞きながら、恐る恐る、その温かいスープを一口すすった。
「……うむ。美味い」ムツィオ司教が唸る。「濃厚で、深いコクがある。確かに、聖女殿の味噌ラーメンだ。だが……」
だが、ジロの一杯が与えた衝撃を超えるものではない。誰もが、そう感じていた。
私は、微笑みながら続けた。
「まず、この一杯の心臓である、お味噌。これは、どこの高名な蔵元のものでもありません。このお味噌は、一ヶ月前、この広場で、この街の皆さんと一緒に仕込んだ『手前味噌』です」
その言葉に、広場が、そして審判席が、ざわめいた。市民代表のアンナさんが、ハッとしたように自分の椀の中を見る。
「まあ……!そういえば、あの日、私も大豆を……!」
そうだ。この味噌には、農夫が育てた大豆を、商人が運び、冒険者が薪を割り、そして子供たちが、楽しそうに豆を潰した、あの日の笑顔と労働が、全て溶け込んでいるのだ。
「次に、このスープの出汁。濃厚な動物系の味の奥にある、山の力強い風味は、ケイレブ様の騎士団が、この街の未来のためにと、危険を冒して見つけ出してくれた、新しい岩塩によるものです」
観衆の中にいたケイレブ様が、少し照れくさそうに、しかし誇らしげに胸を張るのが見えた。
「そして、後から香る、この優しい水の恵みは、私たちの食卓のためにと、漁師の方々が毎日獲ってきてくれる、湖の幸から取っています」
審判員たちは、もう一度、スープを口に運んだ。
今度は、ただの「美味しいスープ」ではない。その一杯の向こうに、仲間たちの顔が、汗水たらして働く人々の姿が、確かに見えていた。味に、物語が生まれた瞬間だった。
「そして、最後に、この麺は……」
私は、広場の前の方で、母親の陰に隠れてこちらを見ている、小さな子供たちに、優しい視線を送った。
「この麺に使われている小麦は、この街の子供たちが、私の厨房の裏にある小さな畑で、一生懸命に育ててくれたものです。彼らこそが、この街の未来そのものです。つまり、皆さんが今食べているのは、文字通り、『未来の味』なのです」
「ああ……!」
アンナさんが、口元を押さえて、声を漏らした。彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「美味しい……美味しいです……!私の息子が、泥んこになって育てた小麦の味がします……!夫が、汗を流して獲ってきた魚の味がします……!この一杯は……私たちの、生きてきた証そのものです……!」
彼女の涙が、全てを変えた。
ムツィオ司教も、セオドーラ様も、改めて、その一杯を味わう。そこにあるのは、もはやただのラーメンではなかった。
人々の労働、仲間への感謝、子供たちへの愛情。ジロのラーメンには決して入れることのできなかった、究極の隠し味―――「人の温もり」が、どんぶりの中で、温かい湯気を立てていた。
広場の空気は、完全に変わっていた。
人々は、熱狂ではない、もっと深く、そして静かな感動に包まれていた。彼らは、この一杯の、当事者なのだ。歓声は、やがて、私の名を呼ぶ、感謝の声へと変わっていった。
その光景を、ジロは、ステージの反対側から、ただ呆然と見つめていた。
(……なんだ、これは)
彼の計算は、完璧だったはずだ。味も、見た目も、コンセプトも、全てにおいて、彼の一杯が、あの女のそれを凌駕していたはずだった。
だが、彼は、たった一つだけ、計算に入れることのできなかったものがあることに、気づいた。
食材の産地や、調理の科学ではない。
人と人との、繋がり。
思い出。
そして、愛。
彼は、料理で、完璧な芸術品を創り上げた。
だが、莉奈は、料理で、一つの「家族」を、一つの「故郷」を、丸ごと創り上げてみせたのだ。
そのあまりに温かく、そして巨大な力の前に、彼の孤独な完璧さは、今、無力に打ち震えていた。




