第五話:聖女の戦略と外交の一杯
広場の熱狂が嘘のように、ギルドマスターの執務室は氷のような沈黙に包まれていた。
司教ムツィオと執事ヴァレリウスが去った後、部屋には私、ドルフさん、そして私を庇うように立つゴークとミーシャの四人だけが残された。
「……どうしましょう」
私の絞り出すような声が、重苦しい空気を震わせた。
神殿と領主、どちらからの呼び出しに応じても、もう片方の反感を買うのは目に見えている。かといって無視すれば、ギルドごと潰されかねない。完全に、詰んでいた。
ドルフさんは、眼帯の奥の瞳を鋭く光らせながら、机の上の地図を睨んでいた。
「神殿は、民の信仰心を支配している。領主は、この街の法と武力を支配している。この二つは長年、水面下で睨み合ってきた。互いに決定的な力を持てず、均衡を保ってきたんだ」
彼は一本の指で、地図の中心、つまり今いるギルドをトン、と叩いた。
「そこへ、お前という『聖女』が現れた。民衆の心を一日で鷲掴みにする、規格外の存在がな。奴らにとって、お前は喉から手が出るほど欲しい『駒』であり、同時に相手に渡せば致命傷になりかねない『爆弾』でもある」
「駒……爆弾……」
なんて物騒なのだろう。私はただ、ラーメンを作っていただけなのに。
ミーシャが心配そうに口を開く。
「どちらか一方を選べば、もう一方から『偽りの聖女』として断罪されてしまうかもしれません……」
「聖女様に仇なす者がいるなら、この俺が!」
ゴークが拳を握りしめるが、相手は一個人がどうにかできる権力ではない。
八方塞がりだ。このままでは、私のラーメン工房も、ようやく手に入れたささやかな幸せも、権力者たちの都合で取り上げられてしまう。
(……いや)
俯きかけた私の脳裏に、前世の記憶がふと蘇った。
歴史学のゼミで、教授がよく言っていた言葉だ。
『歴史を動かすのは、いつだって食料と、宗教と、経済だ』と。
今の私は、その全てを偶然にも手中に収めかけているのではないか?
食料: 誰も真似できない「カップラーメン」というキラーコンテンツ。
宗教: 民衆が熱狂する「聖女」というブランドイメージ。
経済: 一杯銀貨五枚でも行列ができる、圧倒的な集金力。
私は、無力な駒なんかじゃない。使い方さえ間違えなければ、王様すらひっくり返せる、切り札になれるかもしれない。
「……ドルフさん」
私は顔を上げた。もう、そこには怯えるだけの少女はいなかった。
「私、どちらの呼び出しにも応じません」
「なに?」
ドルフさんが眉をひそめる。
「その代わり、こちらから両者を『招待』します」
私は、自分でも驚くほど冷静に、言葉を続けた。
「三日後、この工房で、司教様と執事様のためだけの『特別聖餐式』を開きます。お二人を、同時にお招きするんです」
私の提案に、ドルフさんの片目が大きく見開かれた。
「……同時に、だと?正気か?あの腹黒い狸と狐を、同じ檻の中に入れるようなもんだぞ」
「だからいいんです」と私は頷いた。
「一対一の密室に呼び出されたら、何をされるか分かりません。でも、お互いが牽制し合う公の場であれば、どちらも迂闊な手出しはできないはずです。交渉のテーブルに、対等な立場で着くんです」
私の言葉に、ミーシャがはっとしたように顔を上げる。
「なるほど……!敵の力を利用して、敵を封じ込める……!さすがです、聖女様!」
(いや、ただのビジネス交渉の基本だけど……)
この世界では、それすらも神がかった戦略に聞こえるらしい。
ドルフさんは、しばらく無言で私を見つめていたが、やがてその口の端をニィッと吊り上げた。それは、金儲けを企む顔とは違う、面白い玩具を見つけた悪童のような笑みだった。
「……ククク、面白い!まさかお前に、そんな度胸と知恵があったとはな。気に入った!その話、乗ってやろう!」
彼は立ち上がると、私の肩を力強く叩いた。
「いいか、聖女様。お前はただラーメンを作ってりゃいい。交渉の場の設定と、お前の身の安全は、この俺がギルドの総力を挙げて保証してやる。だからお前は、奴らが文句のつけようもねえ、最高の『奇跡』を用意しな」
ドルフさんの言葉に、私は力強く頷いた。
そうだ。私の武器は、政治力でも武力でもない。
「もちろんです。用意します。外交とは、まず相手の胃袋を掴むところから、ですよね」
私は工房の棚に並んだ、まだ見ぬ食材のリストを見つめた。
司教の凝り固まった信仰心を溶かし、領主の傲慢な支配欲を唸らせる、究極の一杯。
それはもう、ただのラーメンではない。
私の運命を賭けた、一杯の「外交兵器」だ。




