第五十三話:復活の一杯
ケイレブ様の遠征隊から、まだ何の報せも届かないまま、数日が過ぎた。
その日の朝、私は『聖女の厨房』の扉にかけられていた「休業」の札を、静かに裏返した。そこに現れたのは、ミーシャが力強い筆跡で書いてくれた、「営業中」の三文字だった。
大々的な宣伝は、何もしなかった。
だが、その小さな木の札が裏返されたというニュースは、まるで魔法のように、瞬く間に街中を駆け巡った。
「おい、聖女様の店が、また開いたぞ!」
「本当か!?でも、食材はもうないはずじゃ……」
昼時になる頃には、店の前には、以前と変わらない長蛇の列ができていた。皆、期待と、そして同じくらいの不安と好奇心が入り混じった、複雑な表情で、固唾をのんで開店を待っていた。
やがて、店の扉が開かれる。
その瞬間、人々の鼻腔をくすぐったのは、しかし、誰もが知るあの濃厚な豚骨や鶏ガラの香りではなかった。
それは、どこまでも澄み切っていて、優しく、そして、ほのかに磯の香りがする、全く未知の、しかし抗いがたいほど食欲をそそる香りだった。
「……なんだ、この匂いは?」
「懐かしいような……初めてのような……」
人々は、その不思議な香りに導かれるように、店内へと足を踏み入れる。
「へい、らっしゃい!」
ゴークの、以前と変わらない威勢のいい声が響く。だが、彼が運ぶどんぶりは、以前とは全く違う姿をしていた。
どこまでも透き通った、美しい琥珀色のスープ。そこに、絹のようにしなやかな細麺が折り畳まれている。トッピングは、分厚いチャーシューではなく、ふっくらと蒸しあげられた白身魚のほぐし身と、森で採れた香草、そしてあの昆布を細切りにしたもの。
それは、力強さの象徴だった以前のラーメンとは正反対の、優しさと繊細さの化身のような一杯だった。
客たちは、恐る恐る、その未知のラーメンのスープを一口すする。
そして、次の瞬間。店のあちこちから、驚嘆の声が上がった。
「う……うまい……!」
最初に声を上げたのは、腕っぷしの強い冒険者だった。「ガツンとくる感じはねえ。だが、なんだこれは……五臓六腑に、優しい味がじんわり染み渡っていく……。戦いの後じゃなく、戦いの前に、心を清めるために食いてえ味だ……!」
隣のテーブルでは、子供連れの母親が、目を見開いていた。
「まあ……!野菜嫌いのこの子が、夢中で食べてるわ……。それに、なんて滋味深い味なのかしら。身体の芯から、ぽかぽかしてくる……」
それは、衝撃的な感動ではなかった。
だが、一口、また一口と食べ進めるうちに、人々のささくれだった心が、静かに、そして確かに癒されていくのが分かった。経済封鎖の不安も、街の分断への苛立ちも、この優しすぎる一杯の前では、取るに足らないことのように思えてくる。
その噂は、すぐに『美食殿 極』で優雅に食事をしていたジロの耳にも届いた。
「……魚介のスープ、だと?」
彼は、初めてその眉をひそめ、部下に命じて『聖女の厨房』のラーメンを一部、テイクアウトさせて持ってくるように命じた。
執務室で、彼は、もはや冷めてしまったそのスープを、科学者が検体を分析するように、レンゲで静かに口に含んだ。
そして、その顔から、一切の表情が消えた。
(……馬鹿な)
彼の脳が、その味の正体を瞬時に分析する。
(このベースは、煮干しか。頭と腹わたを完璧に取り除き、雑味を消している。さらに、焼いた魚のアラで香ばしさとコクを……そして、この下支えする深い旨味は……なんだ、この水草は……グルタミン酸だと!?)
彼は、戦慄した。
莉奈がやっていることは、ただの思いつきや、偶然の産物ではない。
価値のない廃棄物同然の食材から、複数の旨味成分を抽出し、それらを完璧な比率で組み合わせることで、全く新しい味の宇宙を創造している。それは、彼が前世で身につけた、調理科学の知識そのものだった。
そして、この「魚介系スープ」という発想は、濃厚な動物系スープに固執していた彼の知識の中には、存在しないものだった。
「……面白い」
ジロは、空になった器を見つめ、初めて、心の底から笑った。その笑みは、もはや侮蔑や嘲笑ではなかった。
自分と対等な、あるいは、それ以上の才能を持つかもしれない、好敵手を、ようやく見つけ出したという、歓喜の笑みだった。
その日、『聖女の厨房』の前の行列は、休業前よりも、さらに長くなっていた。
人々は、もう莉奈を「聖女様」だからと崇めているのではなかった。
逆境の中から、全く新しい「美味しい」を生み出した、一人の偉大な料理人として、心からの敬意と信頼を寄せていたのだ。
戦いの火蓋は、再び切られた。今度は、言い訳のきかない、料理と料理の、真っ向勝負だ。




