第五十一話:逆境のヒント
『聖女の厨房』がシャッターを下ろしてから、三日が過ぎた。
厨房の火が消えると、街の活気の火まで消えてしまったかのように、広場は閑散としていた。私の店の前には、それでも毎日、誰かが小さな花や、励ましの手紙を置いていってくれる。その優しさが、嬉しくもあり、そして自分の不甲斐なさに、胸が締め付けられるようだった。
私は、火を落としたはずの厨房で、一人、小さな鍋の前に立っていた。
三日前、倉庫で見つけた「煮干し」。私はこの三日間、それに賭け、一人でスープの試作を繰り返していた。
鍋から立ち上る湯気は、確かに磯の香りがする。だが、スプーンで一口すするたび、私の顔は絶望に歪んでいった。
(ダメだ……これじゃない!)
確かに「旨味」はある。でも、あまりにも弱い……!
あの「月光猪」の骨から染み出すような、濃厚なパンチとコクが全くない。これではラーメンスープと呼べない。ただの、薄い「魚の出汁」だ。
(最高の食材がなければ、最高のラーメンは作れない……? 私の記憶は、この程度だったの?)
あの時、確かに「見つけた」と思った。だが、この貧弱な食材で、どうやってジロの『完璧な美食』に対抗できるというのか。私の奇跡は、本当に尽きてしまったのだろうか。
「莉奈さん、少し、休憩しませんか?」
心配したミーシャが、厨房にお茶を運んできてくれた。試作の煮干しが入った器を持つ私の手が、悔しさに小さく震えている。
「……ごめん、ミーシャ。私、これじゃダメだ……」
私は、目の前の味気ないスープを指差した。
「煮干しだけじゃ、あの豚骨スープには、絶対に勝てない……。私、もう、どうすればいいか……」
弱音を吐いてしまった。最強の食材を失い、見つけた希望(煮干し)すら使いこなせない料理人は、剣を失った騎士よりも無力だった。
ミーシャは、何も言わず、私の隣で試作のスープをじっと見つめていた。
しばらくして、彼女はぽつりと言った。
「昔、莉奈さんが教えてくれました。『旨味とは、生命そのものの味だ』と」
「……ええ。でも、この小魚(煮干し)の生命だけじゃ、弱すぎるのよ」
「……生命は、骨だけですか? そして、この小魚だけですか?」
ミーシャのその素朴な問いに、私はハッとして顔を上げた。
そうだ。私は、いつの間にか、この世界の常識に、そして自分自身の成功体験に、囚われていた。
濃厚な動物系スープの代わりを、「煮干し」という一つの食材でやろうとしていた。
だが、私の前世、日本の「出汁」文化は、そんなに単純なものだっただろうか?
私は、ゆっくりと目を閉じた。
記憶の厨房ではない。今、私が開いたのは、大学の研究室にあった、あの埃っぽい「記憶の書庫」だった。
ページを、一枚、また一枚と、思考の中でめくっていく。
豚骨?鶏ガラ?違う。もっと古く、もっと素朴な、日本の「出汁」の原風景。
―――昆布。(グルタミン酸)
―――鰹節、そして、煮干し。(イノシン酸)
―――乾燥させた、キノコ。(グアニル酸)
なぜ、忘れていたんだろう。 一つ一つは弱い。だが、これらの異なる「旨味」が出会う時、「旨味の相乗効果」が生まれる! 1+1が、2ではなく、5にも10にもなる、味の黄金律。
私の武器は、豚骨ラーメンのレシピだけではない。ラーメンという食文化を、歴史的、科学的に探求してきた、その知識の全てが、私の武器のはずだ!
「……あった」
私は、目を開けた。瞳には、数日ぶりに、確かな光が戻っていた。
絶望の淵で、私は、逆境を覆すための、最高の「答え」を見つけ出したのだ。
私は、厨房の入り口で待機していたゴークと弟子たちに叫んだ!
「ミーシャさん!すぐに、街の漁師組合のところへ! 魚を獲った後、捨ててしまう『アラ』や、売り物にならない小魚をあるだけ全部! それと、浜辺に打ち上げられている『昆布』のような海藻を、乾燥したものでいいから、ありったけ!」
「ゴークさん!森へ行って、乾燥したキノコを! 香りが強いものを、できるだけたくさん!」
「そしてみんな!厨房の、一番大きな鍋を、もう一度磨き上げて! 火を灯すよ!」
突然の私の剣幕に、誰もが呆気にとられていたが、私の目に宿る炎が、本物であることに気づくと、その顔に、みるみるうちに生気が戻っていった。
「は、はい、親方!」
ジロは、私の店の「スープ」を枯渇させたと思っている。
だが、それは大きな間違いだ。
私は、スープを失ったのではない。
ジロが「足し算」の美食なら、私は「掛け算」の旨味で、この世界の誰も知らない、全く新しいラーメンの可能性を手に入れるチャンスを得たのだ。
厨房に、再び火が灯される。
それは、反撃の狼煙。そして、新たなラーメンの、産声だった。




