第五十話:スープの枯渇
ケイレブ様の部隊が未知の荒野へと旅立ってから、二週間が過ぎた。
厨房の片隅に積まれていた「月光猪」の骨と「雲雀鶏」のガラの樽は、日に日にその中身を減らしていく。私は、残された食材をミリ単位で計算し、スープの濃度をギリギリまで調整しながら、なんとか店の営業を続けていた。
だが、そのやりくりも、ついに限界を迎える日が来た。
その夜、最後の一本となった月光猪の背骨を寸胴鍋に投入しながら、私は弟子たちに静かに告げた。
「……みんな、聞いて。このスープが、最後です」
厨房は、水を打ったように静まり返った。誰もが、いつか来ると覚悟していたその言葉に、唇を固く結ぶ。コトコトと、最後のスープが煮える音だけが、やけに大きく響いていた。
翌日の朝。『聖女の厨房』の扉には、一枚の張り紙が掲げられた。
ミーシャの、いつもは力強い、しかし今日だけはどこか震える筆跡で、こう書かれていた。
【大切なお客様へ】
都合により、しばらくの間、休業させていただきます。
必ず、また最高のラーメンと共に戻ってきます。
店主 莉奈
その短い知らせは、街に、予想以上の衝撃を与えた。
店の前には、張り紙を信じられないといった様子で立ち尽くす人々が集まり、やがて、それは大きな動揺の渦となった。
「休業……?嘘だろ!?」
「昨日まで、あんなに美味いラーメンを出してくれていたのに!」
「やっぱり、あの『極』のせいだ……。あいつが、俺たちの聖女様を……!」
人々の不安は、やがて諦めと絶望へと変わっていった。ジロがばら撒いた金の力が、ついに莉奈の奇跡を上回ったのだと、誰もが悟ったからだ。
「聖女様のラーメンは最高だった。だが、結局、金には勝てねえってことか……」
「一代で成り上がった冒険者ギルドの、夢の終わりってわけだ」
街の活気の象徴だった『聖女の厨房』の沈黙は、そのまま街全体の心の沈黙へと繋がっていった。
その光景を、広場の向こう側、『美食殿 極』の最上階から、ジロは冷ややかに見下ろしていた。
彼の前には、新たに開発したという、魔法の氷で作った器に盛り付けられた冷製ラーメンが置かれている。
「……感傷の時代は終わった。これからは、完璧な美食だけが人を支配する時代だ」
彼は、まるでチェスで詰みを告げる王のように、静かに呟いた。「『極』の支店を、王都に出す準備を始めろ」
彼にとって、勝負は、もう決したのだ。
その日の午後、火の消えた『聖女の厨房』は、がらんとして、まるで魂が抜けてしまったかのようだった。
ゴークは悔しそうに壁を殴りつけ、ミーシャはただ静かに涙を流している。弟子たちも、俯いたまま言葉もなかった。
私は、空になった食材の樽の前に、一人座り込んでいた。
悔しい。
自分の力が及ばなかったことが、何よりも悔しい。
だが、私は負けたとは思っていなかった。
ケイレブ様が、今この瞬間も、命がけで新しい食材を探してくれている。ここで私が、諦めるわけにはいかない。
私は、ゆっくりと立ち上がると、厨房の隅にある、一般的な食材を保管している倉庫の扉を開けた。
そこには、この世界のどこででも手に入る、ありふれた野菜や、豆や、干し肉が並んでいる。ジロが、見向きもしないような、二束三文の食材たち。
(最高の食材がなければ、最高のラーメンは作れない?)
(……本当に、そうなのだろうか)
私は、倉庫の奥で、漁師たちが保存用に持ってきたのであろう、網袋に入った大量の「煮干し」――小魚を乾燥させただけの、素朴な食材の山を見つけた。
この世界では、家畜の餌か、貧民の食料にしかならない、価値のないもの。
だが、私の前世の記憶の中では、それは、豚骨や鶏ガラにも匹敵する、最高の「旨味」を秘めた、黄金の宝物だった。
私は、その煮干しを一掴み、手に取った。
ざらりとした、素朴な感触。磯の、太陽の匂い。
「……見つけた」
私の唇から、かすかな、しかし確かな光を帯びた声が漏れた。
ジロが、私の水源を断ち切ったと思っているのなら、それは大きな間違いだ。
私は、今から、誰も知らない、全く新しい水源を、この手で掘り当ててみせる。




