第四十八話:買収と独占
言葉による批判が、街に思想の分断を生み出したと知っても、ジロは眉一つ動かさなかった。彼にとって、民衆の感傷など、勝利の前のさざ波に過ぎない。彼の次の一手は、より直接的で、そして冷徹な、ビジネスマンとしての攻撃だった。
『美食殿 極』の最上階にある、ジロの執務室。彼は厨房に立つ時間と同じくらい、この部屋で王国全土の地図と睨み合っていた。
「感傷は、腹が減れば消え失せる」ジロは、側に控える執事に静かに告げた。「聖女の『温もり』とやらは、特定の希少食材に依存している。その源泉を、我々が管理下に置けばいい。水を与えられなくなった花は、いずれ枯れるだろう」
彼の指示は、的確だった。
数日後、ケイレブ様の騎士団に所属し、「月光猪」の狩りを専門とする冒険者パーティーのリーダーが、私の店に血相を変えて飛び込んできた。
「莉奈殿、大変なことになった!」
リーダーの話によると、ジロの代理人と名乗る男が、彼らの宿舎に現れたという。そして、こう提案した。
「今後、お前たちが狩る全ての月光猪を、『極』が独占的に買い上げる。価格は、聖女の厨房に卸している倍額を保証しよう。それだけではない。契約の前金として、王都最高峰の鍛冶師が打った剣と、最高級の治癒薬を人数分、提供する」
それは、悪魔の取引だった。冒険者という職業は、常に危険と隣合わせだ。より良い装備、より良い薬は、仲間たちの命に直結する。彼らは、私への忠誠心と、仲間たちの安全という、あまりにも重い天秤にかけられることになったのだ。
「俺は、突っぱねた!だが、仲間の中には、考える時間が欲しいという奴もいる……。莉奈殿、申し訳ない。今後の安定供給は、約束できないかもしれない」
リーダーは、悔しそうに顔を歪めた。
悪い知らせは、それだけではなかった。
ミーシャもまた、帳簿から顔を上げ、深刻な表情で報告してきた。
「莉奈さん、北の山村から仕入れていた『雲雀鶏』の卵が、今朝から全く入ってきません。村に連絡を取っても、返事がないのです」
その村は、貧しいながらも、誠実な仕事で、私たちに最高の卵を届けてくれていた。ジロが、その村を見逃すはずがなかった。
後日判明したことだが、ジロの代理人は、その村に破格の契約金と共に、「村から街へ繋がる、新しい橋を架ける」という、抗いがたい条件を提示していた。村人たちは、子供たちの未来のために、その提案を受け入れざるを得なかったのだ。
月光猪の骨と、雲雀鶏の卵。
私の作るラーメンの、まさに根幹を成す二つの食材が、同時に脅かされた。
ジロは、私のラーメンを、言葉で、そして今度は物理的に、その根底から破壊しようとしていた。
その日の夜、店の営業が終わった厨房は、重い沈黙に包まれていた。
私、ミーシャ、ドルフさん、そしてケイレブ様。テーブルの上に広げられた地図には、ジロの手に落ちた、あるいは狙われているであろう食材の産地が、赤いインクで記されている。それは、じわじわと広がる、不治の病巣のようだった。
「……あの野郎、汚え真似をしやがる」
ドルフさんが、テーブルを拳で叩く。
「これは、もう店同士の競争じゃねえ。俺たちの街の、経済と存亡をかけた戦争だ」
ミーシャが、不安そうに私を見た。
「莉奈さん……このままでは、今のラーメンは……」
店の寸胴には、残りわずかとなった月光猪の骨が、静かに煮えている。このスープが尽きた時、私たちの戦いは、本当に終わってしまうのだろうか。
私は、地図の上に広がる赤い染みを、じっと見つめていた。
ジロのやり方は、冷徹で、完璧だ。彼我の資金力には、あまりにも差がありすぎる。
だが、本当に、もう打つ手は無いのだろうか。
私は、まだ誰も知らない、前世の記憶の引き出しを、必死に探っていた。最高の食材がなければ作れないラーメンなど、日本のラーメン文化の、ほんの一部でしかないのだから。




