第四十六話:二つのラーメン
美食殿『極』が開店してから、一週間が過ぎた。
その噂は、もはや街を飛び越え、王都の社交界を席巻していた。「一杯金貨一枚の黄金ラーメン」「美食の魔王が作り上げた、天上の味」。噂は尾ひれをつけ、伝説と化し、私の店に並ぶ客たちでさえ、その話題で持ちきりだった。
「親方!聞きましたかい?『極』のチャーシューは、魔法でとろけるように調理されてるって!」
「麺も、聖女様のとは違う、ツルツルとした食感らしいわよ」
弟子や常連たちの好奇心に満たた声を聞きながら、私は料理人としての本能的な衝動を抑えきれなくなっていた。
(……知らねばならない)
噂や評判ではない。私自身の舌で、魂で、あの男が作る一杯を。
私がこの街で築き上げてきたラーメンと、一体何が違うのかを。
その日の夜、私は閉店後の厨房で、ケイレブ様を待っていた。彼ほど、この任務にふさわしい同行者はいない。彼は、私の最も信頼する騎士であると同時に、その舌は、王都のどんな美食家よりも正直で、鋭敏だからだ。
「……本当に、私でいいのか」
現れたケイレブ様は、少し戸惑ったように尋ねた。
「はい。ケイレブ様の、まっすぐな感想が聞きたいんです」
私とケイレブ様は、目立たないように、フードの付いた簡素な旅装に着替えた。幸い、『極』は完全予約制。ミーシャが、懇意にしている商人の名前を借りて、なんとか席を確保してくれていた。金貨二枚という、店の売り上げのほとんどが消し飛ぶ出費に、ミーシャは泣きそうな顔をしていたが。
『極』の扉をくぐると、そこは別世界だった。静寂、洗練、そして緊張感。給仕に導かれ、大理石のテーブルに着くと、目の前のガラスの向こうに、あの男――ジロの姿が見えた。
彼は、まるで舞台上の俳優のように、スポットライトを浴びながら調理をしていた。その動きには一切の無駄がなく、流れるように美しい。魔法で制御された調理器具が、彼の意のままに動き、食材を完璧な状態へと昇華させていく。
「……すごい」
私が思わず呟くと、隣のケイレブ様も、固い表情で頷いた。戦場で、歴戦の将軍の指揮を見るような、一種の畏怖がそこにはあった。
やがて、二つの、完璧なラーメンが、私たちの前に音もなく置かれた。
漆黒の器。黄金のスープ。宝石のように配置された具材。立ち上る湯気は、魔法によって器の縁をリボンのように舞い、そして消える。
ケイレブ様は、まず、その完璧な見た目に圧倒されたように、しばらく器を見つめていたが、やがて意を決してレンゲを手に取った。
スープを一口すすり、麺を一口すする。
そして、彼は、ゆっくりと、天を仰いだ。
「……参ったな」
彼の口から、偽らざる賞賛の言葉が漏れた。
「全ての要素が、完璧だ。スープの深み、麺の食感、チャーシューの柔らかさ……何一つ、付け入る隙がない。これは……王宮の晩餐会で出されるどの料理よりも、上だ」
彼の言葉に、私はゴクリと唾をのむ。そして、私もまた、震える手でレンゲを口に運んだ。
―――衝撃。
脳髄を、直接殴られたかのような、味の洪水。
スープは、幾種類もの骨と野菜から抽出したであろう、複雑で、寸分の狂いもなく計算され尽くした旨味の集合体。麺は、加水率、かん水の濃度、その全てが完璧で、理想的な喉越しを生み出している。低温調理されたチャーシューは、舌の上で、はかなく溶けていった。
客観的に、完璧な一杯だった。私のラーメンが、足元にも及ばないほどの、技術の結晶。
私は、レンゲを置いた。
ケイレブ様が、心配そうに私の顔を覗き込む。
「莉奈……殿?」
私は、もう一度、ステージキッチンで涼しい顔をして調理を続ける、ジロの姿を見た。そして、脳裏に、自分の店の、汗と湯気と笑い声に満ちた、あの騒々しい厨房を思い浮かべた。
「……ケイレブ様」
「ああ」
「このラーメンは、完璧です。本当に、美味しい。でも……」
私は、言葉を探した。この胸に渦巻く、違和感の正体を。
「でも、このラーメンは、誰のために作られたんでしょうか」
「……何?」
「この一杯は、完璧すぎて、どこにも隙間がないんです。疲れた心や、冷えた体が、そっと入り込めるような、温かい隙間が。これは、食べる人のための一杯じゃない。作り手である、自分自身のための一杯です。自分の技術を、才能を、誇示するためだけの……」
それは、美しく、そしてどこまでも孤独なラーメンだった。
店を出て、夜風にあたりながら、私は広場の向こうにある、自分の店の小さな明かりを見つめた。ケイレブ様が、隣で静かに待ってくれている。
「……彼は、料理人じゃありません」
私は、決意を込めて、はっきりと呟いた。
「彼は、科学者です。そしてこれは、私たちが今まで経験したことのない、全く新しい戦争なんです」




