第四十四話:黒船、来航
ラーメンブームが街に富をもたらしてから半年が過ぎた頃、奇妙な噂が人々の口にのぼり始めた。
中央広場に面した、一等地。そこは、かつての悪徳商人の屋敷があった場所で、革命の際に取り壊されて以来、ずっと空き地のままだった。その場所に、ある日、突如として大量の資材が運び込まれ、見たこともない技術を持つ職人たちが、驚異的な速さで建物を組み上げ始めたのだ。
その工事は、何もかもが異様だった。使われているのは、この地方では見かけない、黒く磨き上げられた石材と、寸分の狂いもなく製材された木材。指揮を執るのは、東方の異国から来たとされる、無口だが恐ろしく腕の立つ棟梁。その潤沢すぎる資金源と、謎に包まれた建築主について、街の人々は口々に噂した。
「王都の大貴族が、聖女様の街に別荘を建てているらしい」
「いや、海の向こうから来た大商人が、一攫千金を狙っているのさ」
その正体不明の建築主は、姿を見せるより先に、その影響力を街に及ぼし始めた。
ある日の昼下がり、『聖女の厨房』に、いつも元気な野菜を届けてくれる農家の夫婦が、青い顔をして訪ねてきた。
「莉奈さん……とんでもねえ話が……」
夫の方が、震える声で切り出した。昨日、見たこともない身なりの男が畑に現れ、「お前たちが作る野菜を、今後すべて、今までの三倍の値段で買い取る。聖女の店には一切卸さないという条件でな」と、金貨の詰まった袋を置いていったというのだ。
「もちろん、俺たちは断ったさ!莉奈さんへの恩を、金で売るなんてできねえ!」
夫婦はそう言ってくれたが、その顔には隠せない動揺が浮かんでいた。もし、他の生産者がこの誘いに乗ってしまえば……。私の店の食材供給は、大きな打撃を受けることになる。
その数日後には、私の厨房で働く一番弟子の青年が、思い詰めた顔で相談に来た。彼もまた、謎の男から「新しくできる店で、料理長として働かないか。給金は今の五倍を保証する」と、破格の引き抜きの話を持ちかけられたという。
「俺は、親方の下でラーメンを学びたいんです!だから断りました!でも……正直、心が揺れなかったと言えば、嘘になります……」
青年の言葉は、私に衝撃を与えた。謎の男は、食材だけでなく、私が育ててきた人材まで、その金の力で奪おうとしているのだ。
そして、季節が移り変わる頃。
広場の新しい建物は、ついにその全貌を現した。
それは、城だった。
街の素朴な木造建築を見下ろすようにそびえ立つ、黒い石と白木で構成された、モダンで、そして冷たく人を寄せ付けない、三階建ての美食の城。
その建物の完成を祝うかのように、一台の、黒塗りの豪奢な馬車が、広場に静かに乗り付けられた。
馬車から降り立ったのは、一人の男だった。
歳は、私と同じくらいだろうか。東方の、おそらくは私と同じ日本の血を引くであろう、整った顔立ち。服装は、料理人であると一目でわかる、シンプルだが最高級の生地で仕立てられた、純白の調理衣。
その立ち姿には、一切の隙も、感情の揺らぎもなかった。ただ、絶対的な自信と、周囲の全てを見下すような、冷たい知性だけが漂っている。
男は、私の店に行列をなす客たちを、まるで出来の悪い作品でも見るかのように一瞥すると、興味を失ったように、自らの城へと視線を戻した。
その時、ちょうど店の外の様子を見に出た私と、男の視線が、広場を隔てて、偶然にも交錯した。
男の目が、わずかに細められる。
それは、私という存在を、初めて認識したという目だった。ライバル?違う。獲物?それも違う。それは、まるで完璧な自分の世界に紛れ込んだ、些細なエラーを発見した科学者のような、無機質で、冷徹な視線だった。
私は、背筋に氷を差し込まれたような悪寒を感じた。
男が、従者に合図を送る。従者たちは、建物の正面に、黒い布で覆われていた看板を、ゆっくりと掲げ始めた。
そこに現れたのは、力強い筆跡で書かれた、三つの文字。
【美食殿『極』】
それは、この街の温かい食文化に対する、あまりにも傲岸不遜な、宣戦布告だった。




