第四十一話:去りゆく者、残る温もり
調印式の翌日、王都の使節団は、街を去る準備を進めていた。
彼らがやって来た時のような、威圧的な雰囲気はもはやなかった。王都の騎士たちは皆、敗残兵のようにうつむき、民衆の視線を避けるように、足早に荷馬車の準備をしている。
グランヴィル侯爵は、一言も発さずに豪華な馬車に乗り込んだ。去り際、彼は一度だけ、窓のカーテンの隙間から、遠くに見える『聖女の厨房』に憎々しげな視線を向けたが、やがて、その姿は街の門の向こうへと消えていった。冷たい論理と権力で街を支配しようとした男は、一杯の温かいスープの前に、完全に敗れ去ったのだ。
使節団の最後尾。一人の女性が、馬に乗らず、静かに佇んでいた。審問官のセオドーラだった。彼女は、護衛の騎士に一言断ると、一人、私の店へと向かって歩き出した。
その頃、私は、まだ休業中の店の客席で、ミーシャが作ってくれた優しい味のお粥をすすっていた。七日間の断食で失った体力は、そう簡単には戻らない。だが、窓から差し込む光と、街に満ちる穏やかな喧騒が、私の心を温めてくれていた。
カラン、と店の扉が開く。
そこに立っていたのは、黒い法衣ではなく、簡素な旅装に身を包んだセオドーラだった。
「……お加減は、いかがですか」
彼女の声は、審問官としての厳格さではなく、一人の人間としての、穏やかな響きを持っていた。
「ええ、おかげさまで」私は、少し驚きながらも、彼女に席を勧めた。
セオドーラは、火の消えた厨房を、感慨深げに見つめていた。
「正式な報告です。王都中央神殿には、『聖女リナの業は、神の教えの本質に沿う、聖なる慈愛の現れである』と報告します。今後、神殿があなたの行いに介入することは、決してありません」
「……ありがとうございます」
私が頭を下げると、彼女は小さく首を横に振った。
「礼を言うべきは、私の方です」
彼女は、私に向き直り、その誠実な瞳で、まっすぐに見つめてきた。
「私は、ここへ、天から与えられる、人知を超えた奇跡を探しに来ました。稲妻や、治癒の光のような、分かりやすい神の御業を。しかし、私が見つけたのは、もっと深く、そして尊い奇跡でした」
彼女は、カウンターにそっと触れる。
「信仰は、山をも動かすと信じてきました。ですが、あなたは、ただの一杯のスープで、人の心を動かした。それは、山を動かすよりも、ずっと困難で、そして偉大な御業です」
セオドーラの声は、静かな感動に震えていた。
「あなたの奇跡は……飢えたる魂を、知恵と真心を込めて作った一杯で満たすという、その行いそのものが……もしかしたら、遠い天の上にある神の御業よりも、ずっと尊いのかもしれない」
それは、彼女が、彼女の全てである信仰を賭けてたどり着いた、答えだった。
私は、その言葉に、ただ静かに微笑んだ。
「私は、聖女ではありません。ただの、料理人です。美味しいものを食べて、みんなが笑顔になってくれたら、それで……」
私は厨房に立つと、旅の携行用に作ってあった、乾燥麺と粉末スープの素を、小さな袋に詰めた。
「道中、冷える夜もあるでしょう。お湯さえあれば、少しは体が温まるはずです」
セオドーラは、その素朴な餞別を、まるで聖遺物のように、両手で恭しく受け取った。
「……この温もり、生涯忘れません」
彼女は、深く一礼すると、静かに店を去っていった。
私たちは、きっともう二度と会うことはないだろう。だが、信仰の世界に生きる彼女と、厨房に生きる私の間には、確かに、立場を超えた敬意と、かすかな友情のようなものが生まれていた。
一人になった店内で、私は大きく深呼吸をした。
嵐は、過ぎ去ったのだ。
厨房に染みついた、懐かしいスープの匂い。窓の外から聞こえる、平和な街の音。
全てが、愛おしかった。
私の帰るべき場所に、私は、ようやく本当に帰ってきたのだ。




